日な日な余波ははなやか歩く

週1~2回くらいのペースで、ここで写真展をやってます。「繰り返し」と「凡庸」は写真と人生の本質です。

自由にやって好し。

 

 夜中0時ごろに目が覚めて、そこからほとんど眠れずだったけど、体の調子は悪くない。めまいもナシ。 

 

 『霜降り明星のオールナイトニッポン』をぼんやり聞いて、ついで『三四郎のオールナイトニッポン』の冒頭を聞いたところで家を出る。 

 家を出てしばらくしてから、行先を決めてないことに気がつく。 足の向くままに、出町柳から枡形商店街を抜け、北西方向に撮影することにした。 

 

 

 美術家・大竹伸朗氏の自然で自由な考え方・態度に共感しているこの頃。 起こるべくして自分の中で起こった変化だと思える。 

 

 根っからのカメラオタクでもばければ、写真家体質でもない自分。 創作行為には自由を望んできた。 その上で染まった写真表現の世界。 僕はたぶん写真に傾倒する多くの人たちとは違う感情を持ってきた気がする。 

 一般的にテーマやメッセージを掲げるドキュメンタリー写真を作ることには、絶対に無理があったし、仕事として写真を選ぶこともなかった。 

 

 

 

 

 大竹伸朗氏の『既にそこにあるもの』という言葉からもうかがい知れるように、既製のものに感情を揺さぶられ、言葉で言い表すことのできない創作の欲求を、圧倒的量の作品数で体現する姿勢には、余計なことを考える必要はないと安心させてくれる何かがある。 

 

 写真家・森山大道氏も、写真は量を撮らなければいけないという言葉は聞いてきたけど、自分の中では理屈的としてしか受け取れなかった。 もちろん、同意・実践はしているのだけど。 たぶん自分の中のタイミングもあったと思う。

 

 

 

 

 上の2枚は、赤信号と青信号の光が看板か何かに写っているのを撮った写真。 文学的に写真を捉えてしまうと、こういうのはまず、除外されることになるだろう。 だけど、自分はそうじゃないんだもの。 

 

 ヴォルフガング・ティルマンスが出てきた時なんか、そういう印象を持っていた。 それまでの写真の考え方では、あのインスタレーションは生まれなかったはずだ。

 

 この先は、他人の考えや既製の写真の枠に縛られずに、自由に写真を撮っていこうと思っている。 何度も言うけど、それが自分にとっての「創作」なのである。 

 

 

 

今朝は歩数の記録は残らず、撮った数は151カットで、少なめ。

 



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