日な日な余波ははなやか歩く

週1~2回くらいのペースで、ここで写真展をやってます。「繰り返し」と「凡庸」は写真と人生の本質です。

狙わない写真。

 

 

 

 

 

 「都市」という場所をきちんと撮りたい。

 コロナウィルスによる自粛ムードの間に京都を撮り重ねたことで、そういう考えに至った。 で、5月からの「大阪」通い。 昨日、そして今日。 休日の「寝る」以外の自由な時間の半分以上は、大阪で写真を撮ることに費やしている。

 

 ただし、一度撮り始めると、簡単には終わることはできない。 どこまでやれば写真が何者にかなるのか。 

 

 

 

 

 淡々と撮り続け、

 徐々に写真と写真の間の隙間が埋まり、

 そのうち密度が生まれて、

 その中の何の変哲もない一枚の写真が強いものになっていく・・・はず。

 そういう順序をたどっている。 

 

 大阪の街には洗練されたものとそうでないものが混在している。 で、そのどちらも僕は切り捨てるべきではないと考えている。 そんな曖昧さがどのように写り、そしてその写真はどこに行くのか、行き先は写真自身に任せているのである。 

 

 自分がやりたいことは何なのか? その問いの答えは、繰り返しの行為の中に潜んでいる。 力尽くで捻り出すと、独善的な結果を生みだす。

 だから強制はせず、ただただ退屈をエネルギーに変えて、客観することに力を注ぐ。 

 

 

 

 

 

 ただ、波というものも存在する。

 昨日の夜明けは曇天でグレー1色の世界だったけど、今日の夜明けは青く沈んだ世界。 僕は生理的に青い光が心地よい。 そんなわけで今朝は調子が良く、シャッター音が空回りしない。 

 

 昨日は28,444歩で587カット。 前半は空回り。 そして今日は20,450歩で480カット。 最初から手応えがあった。

 

 

 ところで、

 少し前から、僕はインスタを始めたのだが、自分の写真はインスタグラムという枠組みには何となく納まりが悪い気がしている。

 いわゆる「キメ写真」というか「キラキラ」の写真を撮ろうとしてないから、はじめから勝負にならない。 面白い人間でもないし、もし面白い人間だったとしても、残るということとは別の話だし。

 

 これも写真、あれも写真、たぶん写真。 きっと、写真の新種だってありえる。 写真はどこか場所を得て、花が開くもの。 簡単で単純でだけど奥は深い。 才能に対する答えは、いつも風まかせ。 だから負け試合と分かっていても継続は力なりで、自分は自分のペースでやっていくしかない。 

 

 たぶん世間様のノリと僕の考えは違うのだろうな、などと長年の無意味な苦労もあって、諦めてしまっているところはある。 

 

 

 

 とりあえず今朝の撮影は、この後心斎橋道頓堀からアメリカ村を過ぎるとこまで続いた。

 

 道端では若者が眠り、辺りにはゴミが散乱し、時々叫び声が聞こえる風景の中で自分なりに見えた世界をカメラに収めた。 前進するごとに街の空気が変わっていくのが、絵に描いたようにわかりやすくて面白かった。 

 

 その続きの写真は、後日に更新します。