日な日な余波ははなやか歩く

週1~2回くらいのペースで、ここで写真展をやってます。「繰り返し」と「凡庸」は写真と人生の本質です。

外側にいる。

 

 

 

 

 

 出身地の滋賀は関西圏だから、70年代から80年代の大阪発のテレビの影響力は自分にとって絶大だった。

 「道頓堀」という地名も昔から独特の感触で耳に残ってきたけど、こうしてまた目の当たりにすると、これが現実なんだと不思議な気分になる。 自分の中に昭和の幻影が残っている。

 

 

 

 

 

 

 とにかく大阪の街は、ゴミと落書きが多い。

 ひとまず落書きの方は写真を撮る分には嫌いではない方だが、散乱したゴミを売りにして写真を撮るのも何となく気が進まない。 そればかり撮っていても、気持ちがガサついてくる。

 

 だけど、キラキラした世界を撮る気もないのだから、どうしたものかと思う。 テクニックの上手下手を問題にしているわけでもなく、ただ写真に写った「事実」だけが頼りの自分。 マニュアルすら見当たらない。  

 これで自分が撮りたいことをやってなかったなら、一人ぼっちは、とても続かない。 ゴッホは、絵のことをやっている時だけは正常でいられたらしい。

 

 オリジナリティとはどこにあるのか? 

 

 

 

 「どうしようもなく、人間が写ってしまっている写真」  そういうのがいい写真だと思っている。 始めから人間の存在を美化したくない。 

 

 そのあたりのことは、うまく言葉にはできない。 僕が言うと、悪口になってしまう。 自らのことでもあるのに。 こういうことを考えた時に思い出すのは、市川準の言葉。 

 

 

今、頑張ることの空しさが立ちこめている。

 大きな空しさに被われているのだ。

 でも人間はやはり、きょうも、

 がんばってしまっているのだった。

 がんばることの空しさに耐えてがんばること。

 人を信じて、がんばるしかない、と思った。

 

 人類を中心に世界を捉えたくはないけど、「人類」とは「人」だから、「ひとり」ということも想像できなければならない。

 写真はいつも、外側の存在であるべきだと思う。