出身地の滋賀は関西圏だから、70年代から80年代の大阪発のテレビの影響力は自分にとって絶大だった。
「道頓堀」という地名も昔から独特の感触で耳に残ってきたけど、こうしてまた目の当たりにすると、これが現実なんだと不思議な気分になる。 自分の中に昭和の幻影が残っている。
とにかく大阪の街は、ゴミと落書きが多い。
ひとまず落書きの方は写真を撮る分には嫌いではない方だが、散乱したゴミを売りにして写真を撮るのも何となく気が進まない。 そればかり撮っていても、気持ちがガサついてくる。
だけど、キラキラした世界を撮る気もないのだから、どうしたものかと思う。 テクニックの上手下手を問題にしているわけでもなく、ただ写真に写った「事実」だけが頼りの自分。 マニュアルすら見当たらない。
これで自分が撮りたいことをやってなかったなら、一人ぼっちは、とても続かない。 ゴッホは、絵のことをやっている時だけは正常でいられたらしい。
オリジナリティとはどこにあるのか?
「どうしようもなく、人間が写ってしまっている写真」 そういうのがいい写真だと思っている。 始めから人間の存在を美化したくない。
そのあたりのことは、うまく言葉にはできない。 僕が言うと、悪口になってしまう。 自らのことでもあるのに。 こういうことを考えた時に思い出すのは、市川準の言葉。
人類を中心に世界を捉えたくはないけど、「人類」とは「人」だから、「ひとり」ということも想像できなければならない。
写真はいつも、外側の存在であるべきだと思う。