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YouTube で『追悼 立花隆の書棚展』を見ていると、先日アリバイブックスで購入した『ナンシー関大全』が目に入った。 立花さんもこの本に興味を持っていたことが、ちょっと嬉しかった。
そして今朝。
出かけるには出かけたが、ずっと鼻の奥がムズムズして撮影に集中しずらかった。 それでも289カットを撮影。 小さな波を見逃さず、次のが来たらしばらく乗り続ける・・・そんな感じで撮っているうちに数が増えた。 悪くない。
ここ最近の自分は、世間で言われる写真界というものへの興味が失せていたのだが、帰宅した際に机に積み上げた写真集がふと気になって、その中から Guido Guidi(グイド・グイディ)の CINQE VIAGGI (1990-98) という作品集を取り出し、眺めてみた。
すると案の定、その写真に魅了されるのである。
写っている雑然とした風景への共感はもちろんだが、その色合いや質感、そして何よりも視点の自由さに僕などは魅了されるのである。 三脚で固定された大型カメラ故の、カメラに任せた構図というものが、本当に心地いい。
一般的に三脚を使った撮影は、「計算した構図で写真を撮るため」みたいな思い込みがあるだろうが、案外その逆の考え方もあって、自分の手癖から解放される手段にもなるという意味合いもあるのである。
ポンとカメラを立ててファインダーを覗いた時に見る偶然に得た構図というものは、なかなか驚きがあっておもしろい。 自らの呪縛から解放される心地よさは、撮り重ねていくうちに写真にも現れてくる。
こねこねと自分の意思だけを主張した写真作りというのは、見る人にも鬱陶しく、うざい写真になりかねない。
そういうことって、あると思う。 表現行為というものも日常のコミュニケーションと何ら変わりはなく、聖域は無いらしい。 肝心なのは、それ以前の段階にあるのかもしれない。 近道して写真をやってこなかった自分などには、その感覚をようやく体得できた気がしている。
昔、年下の若い男の子に、「写真なんて撮ったらええだけやろ」と言われたことがある。
・・・・いやいやいや。 その撮るだけの一瞬の行為の中に、どうやったら自分を写し込むことができるのか? それが写真の本当の難しさなのである。