日な日な余波ははなやか歩く

週1~2回くらいのペースで、ここで写真展をやってます。「繰り返し」と「凡庸」は写真と人生の本質です。

遠くへ行ってしまいたい。

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 比較的、近所な「松崎」。 大通りは通るけど、中の方の街景色は知らなかった。♪知〜らないま〜ちを 歩いてみた〜い♪ という心が湧いてくる。 

 

 

 

 

 蜩(ひぐらし)の声が聞こえて、夏の思い出が蘇る。 瞬間、自分が死んだら、この思い出も消えて無くなるんだな、という考えが浮かんだ。 まあ、何の価値も無いもんな。 思い出はみんな自分の胸にしまい込んで人はこの世と「オサラバ」するのである。 夏は死の匂いがする。

 

 少しづつ読んできた『山怪』の三冊も、まもなく読み終わる。 異界の空気にどっぷり浸り過ごしているものだから、思考の通り道も彼岸と隣り合わせだ。

 

 ああ、いっそのこと・・・・と無責任な妄想する自分も時には許してあげたい。

 

 心は写真を撮る行為の枠はなく、創作を思考している。 撮ることの上手い下手なんて技術論も。写真界も、仕事的な感覚も卒業するよ、勝手に。 それが今の僕の自由なのだ。 やりたいことをやらなくて、他に何をやるの。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 














 

 

 

身体が生みだす言葉。

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 現代美術の印象が、大竹伸朗氏によって変わった。 「無目的」に、共感ができるのだ。

 

 無目的かつ無意味・無責任に身体から生み出される「創作」行為。 言葉で表すことが出来ないから、「創作」する。 他にやるべきことなんて見つからない、という人には、もうそれしかない。 

 「写真を撮ることに没頭していたい」と望む50歳を過ぎた我が身にとって大竹氏の言動は、自分でも驚くほど前向きに捉えられた。 今になって「わかった」のである。 理屈ではない。

 

 考えないで撮る写真は、偶然を受け入れるための準備と、止まることのない自らの身体と生理で反射する動作と思考の連続だ。 撮るものなんて何だっていいのだ。 ただし言葉にならない何かを求めていることは、ずっと変わりはない。 それはたぶん「最初」から存在するのだ。 後からとって付けた不自然さで物事は続かない。 その何かを抱えていることが才能だと思う。 社会が認めるかどうかは、あとの問題。 自分を犠牲にして社会に参加しても無理があるんだもの。 辛抱ばかりだけど。 

 

 

 

 


 午前1時過ぎに目が覚めたので、「オードリーのオールナイトニッポン」を聞く。 『春日に学べ!』って、嫌いじゃないね、あたしは。

 

 ラジオを聞きながら頭に『二条城』の画が浮かんだので、午前3時過ぎに出発、南東に下がって行き、丸太町通を西へ、堀川通りを目前にするあたりから撮影を始め、千本通で南へ曲がり、JR二条駅から四条大宮をさらにひとつ南に下がってから東に戻り、四条西洞院でフィニッシュ。   

 

 二条城の石垣が蛇の体みたいにヌメっと写っている。 こういうの、いいね。 

 

 14,695歩を歩き、353カットの写真を撮る。 調子がいい。 撮っている間は、足腰の疲れも気にならない。 帰りのバスに乗ってシートに座ると、まだ座っていたいと思う。

 

 

 

 

 

 

 



 

偉大な冒険

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 今朝は比較的、涼しかった気がする。 17,506歩を歩いたけど、さほど汗をかかなかった。 空気がカラッとしている。

 

 東大路通り・清水から京都女子大を通りぬけ、今熊野の辺りまでを中心に撮影する。 まだまだ知らないところがあるものだ。 知らない場所だからいい写真が撮れるというわけではないけど、好きな景色と自分とが出会うタイミングが、今日は良かった。 やっぱり、人が生きる世界というのは凄い。 何だか凄い。 そう思えた。 

 

 今日歩いた街は廃屋が多かった気がする。 僕の目に廃屋は留まりやすく、早朝の写真の写りは良い。 壁や窓、そして古いガラス板などの表面には、とても惹かれるものがある。 物体として、その色や形状・質感に惹かれる。

 

 

 

 

 

 

 

 

 廃屋を廃屋らしく撮りたいとは思わない。 現役の家と変わらないテンションで、淡々と撮りたい。 ジャンル分けしてコレクションみたいな感じも嫌だし、特筆したくもない。 「お疲れさん」程度の感情の持ち方がいいと思っている。 

 

 写真を撮ることで、いつもの街の中に、今日もまた、新しい「何か」を見つける。 

 

 1枚の写真が新たな「何か」を掴みとってくれるのは、すべて、偶然の為せる技である。 いくら考えても無駄なのである。 

 

 以下の言葉は、ほぼ日で読んで知った、ジャコメッティの言葉。

 

「偉大な冒険とは、同じ顔の中に、

日ごと見知らぬものが現れるのを見ることだ。

それは世界を回るどんな旅行よりも偉大なことだ」

 

・・・・これ! これ! これなのよ! っていう感じ。

 

今日は424カット。 結構ねばった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

ひとりからしか生まれない。

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 他人が見ても一眼で理解してもらえるような、安全なことだけをやっていても仕方がない。 それだけでは治まりがつかないことは自分が一番わかっているのだから、不満があるなら自分でなんとかするしかない。 他でごまかす事が出来ないのなら。

 

 本当に面白いと思えるものは、ひとりの人の中からしか生まれない気がする。 

 

 ひとりの人が日々感じる時間の感触や生きている味わいみたいなもの、そういう些細な瞬間や場所からしか、本当に面白いというのは生まれない気がするのだ。 そこに意味など無くても。 

 

 自分のやりたい事をやる。 今の僕には、それが一番必要なことだ。 言葉にすれば簡単だけど、そこにたどり着くのは容易ではなかった。 年月を経て、やっと分かりかけてきた気がする。 とくに写真はカメラがあれば誰でも撮れるものだから、一見、用意された場所があるように見えるけど、自分の場合、そんな楽しげな欲求は持ち合わせてなかった。 雲を掴むような状態のままで、それでいて未だしつこく撮り続けている。 まさに、孤独の為せる技だろう。

 

 

 

 

 他人の分析は気分しだいで安易にできるだけに、もう空しくてやってられない。 腹立つことはたくさんあるけど、その怒りが次の写真を撮るための燃料になるなら、まあ良しとしたい。 

 

 他人に一眼で理解されるようなことは、たぶん続かないと、僕は思う。

  

 

 

 

BRIAN ENO ANBIENT KYOTO を、見る。

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昨日チケット予約して、今朝10時に BRIAN  ENO  ANBIENT KYOTO を見に行く。

見に行ったのだけど写真は1枚も撮ってないので、ここでは見せれるものはありません。

 

作品を見てすぐに出る言葉としては、肯定的に「意味がない」ものを見たのは久しぶり・・かな、という感じ。 「音と光のインスタレーション」は、「音と色彩のインスタレーション」とも言い変えられる。 とにかくボンヤリと眺めた。 

 

全ての作品は、ボンヤリと眺めているうちに、とめどもなく変化している、ということに、気づく。 時間に任せて身を浸す。 時々、音楽が流れていることも忘れたりする。 

どの状態がピークでもなく、ただ流れつづけ、変化していく。 等価、ということに価値があるように思う。 

意味や答えらしきものを用意していないのが、アートとして、本当っぽい。 いや、本当なのだ。 最近の風潮は、安易過ぎる。 アートが単に経済活動の手段になってしまっては、創作行為に自由が無くなってしまう。 個人は、全体に巻き込まれてはいけない。

 

 

 

 

 

 

 

 

僕の初めてのインスタレーション体験は、1989年の神戸ジーベックホール・オープニング展での「音と光のインスタレーション」で、ブライアン・イーノが最初だった。  

 

たまたま同期の友人について行っただけなのだが(レイハラカミも一緒だった)、その体験があって、紫や緑のステンドグラスなんかをTVなんかで目にすると、頭の何処かにブライアン・イーノ の名前が浮かんでいた。 

 

その後は、いくつかのアルバムも聴いたりして、今日見た作品の「THE SHIP」も、出た発表した当初に買って聴いてはいた。 途中音がデカいから、たまにしか聴かないけど。 

 

自分のお土産としては、月末に向けてお金がないくせに、図録は当然、アルバム ANOTHER GREEN WORLD (1975) も買っちゃいました。

 

 



今日の写真は、会場を出たその後、七条通り界隈を彷徨い歩いて撮った写真です。

こういうのは普段からよく撮るのだけど、とくに今日はイーノっぽく感じられて、しつこく撮りました。 イーノはもっと蛍光色ですけど。 あと、マーク・ロスコ の作品も惹かれているので。

 

 

今日の歩数は10,253歩で、220カットを撮影。 アンビエントなので朝の撮影をすると眠くなりそうで、今日は中止。 とりあえず、お昼のビールが美味かった。

 

 







 

祇園祭で何が写るか?

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午前3時に家を出て、徒歩で午前4時すぎに四条河原町に到着。 祇園祭による鉾のある風景とその周辺が、今朝の撮影の対象。 

今現在撮っている街の風景シリーズのバリエーション欲しさに足を運んでみた。 僕自身、祇園祭自体にはあまり興味はない。 滋賀県出身にとって祇園祭はこれからも観光的イベントでしかない。 当然かもね。 

 

祭りの今朝はカメラを持っている人が多い。 が、僕以外に三脚を使っている人はいない。まだ暗いのに。 僕はカメラの感度を上げるのが嫌いなので。

 

 

 

 

「祭りだから写真を撮る」というのは、社会的に通用する常識なのだろう。 撮っていても誰も不思議に思わない。 京都らしい夏の情緒を写真に収めるのが目的なのだろうか? 広いストライクゾーンである。 ほどよく上手に治まればいいね的な感じ。 さっきTVの中継をチラ見しても、沿道の人はみなスマホで写真なり動画なりを撮っている不思議な風景が映っていた。 

やっぱり、僕の立場は「くたばれローカルカラー」by植田正治 である。 

 

 

 

 

 

写真的には、上の写真の鉾が一番面白かった、ので、もう1枚。

 

 

 



訳もわからないまま17,291歩を歩き、355カットの写真を撮る。 行動しただけ、マシ。

 

 





 

写真の中の雨。

 

 

昨日は、雨が降るのを待っていた。

御池の中古レコード屋さんで時間をつぶしていると、ザーッと雨が降り出した。

 

 

 

 

そして今朝。 歩くのはやめにした。 

布団に戻り、もう一度寝たが、4時過ぎに目が覚め、やっぱり近所だけでも、と撮影に出る。