日な日な余波ははなやか歩く

週1~2回くらいのペースで、ここで写真展をやってます。「繰り返し」と「凡庸」は写真と人生の本質です。

暮らしの時間の探しもの、42




平日の毎日を、4色の印刷機のオペレーターとして働いているので、ふだんは、けっして時間があるわけでもなく、むしろ忙しい毎日だと思う。

それでもマメにやれば、写真なんてものは案外撮れるもので、とくに珍しいモノ事は望めないにせよ、何らかの試みはできるものである。

むしろ、物珍しいモノ事に頼り切った写真ばかりなど、撮り続けられるものではないし、それは写真そのものの存在を見えなくさせるような気さえする。逆に、際立たせることもあるだろうが。

とってつけたようなことは、したくないというのが、正直なところだ。

ここでの写真は、オリンパスペン(デジカメ)で撮ったものばかりで、言うなれば、まったく寝かせた写真ではなくて、むしろ、実況中継まではいかないにせよ、気持ち的には、それに近いものがある。

こうしてブログを始めてからは、やっと、このカメラも役に立った。



写真は、言葉の理屈ではないことが、自分にとっての救いで、自分の根っこにかかわらなくても、アラよっで何かのカタチにはなる。

それは一見、わるいことにも見える。

自分の中を素通りするから、写真は、自らの表現ではないのだと思う。
そこがいい。

写真は制作過程が簡単な分、作品としては、自分の手中には入りにくく、いつまでたっても熟練ということがないということは、よく言われることだ。
じっくりと1枚の写真を作り込めたら、どんなに楽かと思う。
でも、そうなれないとこが、よいことなのだろうと考える。

できるだけ単純な場所での、手探りの作業。
そこに立ち返ることが、肝心なことだとは思う。