日な日な余波ははなやか歩く

週1~2回くらいのペースで、ここで写真展をやってます。「繰り返し」と「凡庸」は写真と人生の本質です。

区切りをつけねば、ティルマンス展。







今日も暑い。

そんな暑さの中、大阪・国立国際美術館へ、ヴォルフガング・ティルマンス展を見に行った。
東京オペラシティーでの個展も観れてなかったから、今回が初めての個展観賞だ。

観終わっての感想としては、「区切り」をつけなければ、そう思った。

作家が世界を見て回って、写った世界も広くなればなるほど、散漫になってゆく印象はぬぐえなかった。
評論家が難しい文章で解説するようなほどに親切な気持ちにもなれず、どの視点で観ればよいのか、判断に迷った。

結局、僕が観て良いと思うのは、写真の良さが際立った展示の部分であり、それが作家にとっての本意ではないようなところだったような気がする。ゆっくり作品の真意を味わうなら、出版の方がよいのかもしれない。僕も何冊か彼のを本棚に並べている。
そんな僕自身もティルマンスが好きという時間を、そろそろ終わりにしてもいいような気がした。彼がフィルムからデジタルに移行したと同じくして。
思うに、デジタル写真のコラージュは好きにはなれない。何か違うと思う。

インスタレーションとして面白かったのは、ソルジャー(この呼び方が正しいのかどうかはしらないが)のシリーズの部屋。
いちばん判りやすかった。サンプリング的な拡大コピーの展示ばかりだったから、開き直ってて(?)、見る側としても迷いが無かった。

ポートレートや、肉体の「部分」を写したような写真は魅力的。
足のすね丸出しの白い靴下の写真や、両腕を上げた背中のポートレートは良かった。あれが、ポストカードで売ってれば、買ったと思う。

写真の良さを感じながら、展覧会全体としては、イライラした。
この先もこれが続くのだろうか? 評論家は「これで良し」として、これからも好評を続けるのだろうか? 疑問だ。

とにかく・・・

自分としては、今回の経験を整理して、しっかり考えていかなければいけないという感想を持った。
階下で同時開催してた、『TIME OF OTHERS 他人の時間』という企画展の感想も含めて、そう思った。
(ジョナサン・ジョーンズさんの作品は良い。楽しめました。)

この企画展で観たような、個々の社会状況という裏打ちがなければ、作品に価値が生まれないというのが全てではないと考える。
テーマが直接的な作品は、僕には楽しめない。美術は=そういうものではないと思うから。
それでは、アマちゃんのかしら。