慣れ親しんだかどうなのか、期間としては永く住んだ街。
そこに、どれほどの意味や重みがあるのかなんて、判らない。
はじめから、「京都」という言葉に、意味は求めてなかった。
たぶん求めてきたのは、「風景」であり、日常の「くり返し」なのだと思う。
だから、「どこでもいい」のだ。
「どこでもいい」というところで、今までやってきた。
目の前のことではなくて、その奥に流れてること。
浮き、沈み、消えて無くなり、また現われては、楽しんだり、苦しんだり。
個人的なことに囚われてる訳ではない。
もっと、そこ(「底」でもいいかもしれない)に在る風景に、身をまかせたいというだけなのだ。
そんなのでは曖昧でインパクトに欠けて、作品云々としては価値がないと言われるのかもしれない。
でも、「くり返し」てきた。「くり返し」に意味があると、今では思う。
ミニマル(最小限)という言葉の意味には、魅かれる。
でも、ベッヒャー夫妻の給水塔みたいになっても、今イチ、飽きてしまう。
たしかに好きではあるのだけど、写真集を買うまでには至らない。
自分の資質として、「展開」が欲しくなってしまう。
そういう意味では、「物語」に魅かれているのかもしれない。
だけど、「写真においての物語」には魅かれない。むしろ嫌悪を感じる。
写真をやっているというのは、盲目な自分とつきあうという手段なのかもしれない。
盲目という自分を自覚しているということだと思う。
つまり、見たい、眺めたい、という欲求から来ている。
「見る」ことは、痛々しくも、心地よい。
近所にある、この洋風な家。
周りの風景から浮いているようでいて、案外、そんなこともなく、結局、魅かれてしまう。
結果、よく撮っている。
勝手ながら僕は、エグルストンの家と心の中で名付けている。
アメリカの写真家、ウィリアム・エグルストンが本当にこんな家に住んでいるのかは僕は知らない。
もともとお金持ちだから、大きな家にすんでいることには間違いないとは思うが。
そんな曖昧で不釣り合いな風景かもしれなくても、写真を撮るというのは、
その文化や現実という大袈裟なことに焦点をあててるのでなく、
もっともっと、単純で浅はかながらも、一瞬のうちに感じた何かであり、
やっぱり、「くり返し」が意味する何かに向かっているのだと思う。
この1枚が残ることはないと思うけど、
別の機会での、別の1枚に生きてくる何かはある気がする。
たぶんそう思って、僕は写真を続けてきたのだと思う。
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