日な日な余波ははなやか歩く

週1~2回くらいのペースで、ここで写真展をやってます。「繰り返し」と「凡庸」は写真と人生の本質です。

最小限の風景


慣れ親しんだかどうなのか、期間としては永く住んだ街。
そこに、どれほどの意味や重みがあるのかなんて、判らない。

はじめから、「京都」という言葉に、意味は求めてなかった。
たぶん求めてきたのは、「風景」であり、日常の「くり返し」なのだと思う。
だから、「どこでもいい」のだ。

「どこでもいい」というところで、今までやってきた。
目の前のことではなくて、その奥に流れてること。
浮き、沈み、消えて無くなり、また現われては、楽しんだり、苦しんだり。

個人的なことに囚われてる訳ではない。
もっと、そこ(「底」でもいいかもしれない)に在る風景に、身をまかせたいというだけなのだ。

そんなのでは曖昧でインパクトに欠けて、作品云々としては価値がないと言われるのかもしれない。
でも、「くり返し」てきた。「くり返し」に意味があると、今では思う。

ミニマル(最小限)という言葉の意味には、魅かれる。
でも、ベッヒャー夫妻の給水塔みたいになっても、今イチ、飽きてしまう。
たしかに好きではあるのだけど、写真集を買うまでには至らない。
自分の資質として、「展開」が欲しくなってしまう。
そういう意味では、「物語」に魅かれているのかもしれない。
だけど、「写真においての物語」には魅かれない。むしろ嫌悪を感じる。

写真をやっているというのは、盲目な自分とつきあうという手段なのかもしれない。
盲目という自分を自覚しているということだと思う。
つまり、見たい、眺めたい、という欲求から来ている。

「見る」ことは、痛々しくも、心地よい。


近所にある、この洋風な家。

周りの風景から浮いているようでいて、案外、そんなこともなく、結局、魅かれてしまう。
結果、よく撮っている。

勝手ながら僕は、エグルストンの家と心の中で名付けている。
アメリカの写真家、ウィリアム・エグルストンが本当にこんな家に住んでいるのかは僕は知らない。
もともとお金持ちだから、大きな家にすんでいることには間違いないとは思うが。

そんな曖昧で不釣り合いな風景かもしれなくても、写真を撮るというのは、
その文化や現実という大袈裟なことに焦点をあててるのでなく、
もっともっと、単純で浅はかながらも、一瞬のうちに感じた何かであり、
やっぱり、「くり返し」が意味する何かに向かっているのだと思う。

この1枚が残ることはないと思うけど、
別の機会での、別の1枚に生きてくる何かはある気がする。
たぶんそう思って、僕は写真を続けてきたのだと思う。

Becher Bernd & Hilla - Typologien

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Water Towers (MIT Press)

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William Eggleston's Guide

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