日な日な余波ははなやか歩く

週1~2回くらいのペースで、ここで写真展をやってます。「繰り返し」と「凡庸」は写真と人生の本質です。

忘れるだろう。









電車を乗り継いで3時間のたどり着いた街で、何を撮るのかと探し歩く。
河、山、向こう岸に見える滝、河原に捨てられたエロ本、閉鎖された旅館の門、それらは大した手応えもなくフィルムに収まって、これで終わりなのかとうな垂れる。
線路の下、トンネルをくぐり、街の向こう側に足を踏み入れる。このまんま、次の駅まで森の中の国道を歩こうか迷いながら歩く。
田んぼが途切れた辺り、農機具を納めた大きな車庫を過ぎると、景色が変わった。今では稲作を止めたらしい雑草の生える湿地帯にまばらに樹々が立ち並んでいる。そこには、良い「樹」が立っていた。引き込まれる。
その良い「樹」は、どんな良い「樹」なのかというと、今は分からない。特定もできない。家を出て、4時間後に見つけた、ただの良い「樹」だ。それが「良い」と、その日は、思い至った。
後日、現像の上がりを見る。プリントはまだしてない。ダメな写真なら、忘れるのだろう。