日な日な余波ははなやか歩く

週1~2回くらいのペースで、ここで写真展をやってます。「繰り返し」と「凡庸」は写真と人生の本質です。

パッと見て、あっ。

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昨日の話の続き。

稲川淳二の怪談「生き人形」についている男の子の霊が生放送のTV番組「プラスα」で実際に映ったのは有名な話だ。

僕は番組を見ていなかったから実際のその画は知らないのだけど、男の子の幽霊は青い半ズボンに白のポロシャツを着ていたという画を自分でも気づかないうちに想像していることに気がついた。

でもこれまで、そこには全く現実味がなかったのだけど、先日家のトイレに入っていた時にほんの一瞬、リアルにその画を想像してしまい怖くなった。

当時のブラウン管のTV画面、稲川淳二の斜め後ろに男の子の幽霊が立っているその感じが、自分の頭に浮かんだのだ。

それはパッと一瞬のひらめきみたいなもので、言葉に表すことができるようなものではなく、再現するのもむづかしいくらい一瞬のことだった。

 

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なぜそんなことを書いたのかというと、

今朝は4時頃から雨が降るという予報を見て撮影に出かけるのはやめにして(実際に雨が降り出したのは7時半頃だった)、河合隼雄著『こころの最終講義』という本を読んだからだ。

 

誰もが経験する「パッと見て、あっ」というような一瞬の時間に共時的に頭に把握されたことを他人に伝えるには時間がかかるし、それは一つの物語に形作られるということが書かれていた。その例として、仏教の「マンダラ」はそういう思考に基づいてできたものらしい。

かの「ユング」は仏教のマンダラの存在を知らずに、師「フロイト」との確執からくる葛藤を結果として「マンダラ」と同じ形式に書き表すことで、心の平静を得ていたらしい。

 

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日常、「パッと見て、あっ」はよく起こる。

でも自分の場合、頭の回転の悪さとそのものの名前も思い出せないことも増えたせいか、頭に浮かんだ一瞬のことをうまく言葉に変換することができない。

内容はともかく「ひらめき」だけは浮かぶのに、言語中枢の能力は全く成長しないまま。

もともと話すのに時間と労力がかかる人なので、余計にそうなのだ。

 

少し前「立川談志」の落語本編の前に話される枕の話にハマった。これが凄いのだ。

談志が話している最中に次のパッと浮かぶイメージが簡単かつ的確な言葉で口から出てきて、そのリアルタイム感がビシビシとこちらに入ってくる。聞いていて気持ちが良い。

思考の「最中」が言葉となって伝わり、咄家の個性が「落語」というものをさらに興味深いものに生まれ変わらせてくれる。

立川談志という人は、なんと凄い能力の持ち主かと思う。

その談志を凄いと言わせる「志ん生」は、さらに凄い。

 

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今朝は雨の予報で写真を撮りに出かけなかったが、代わりにお昼前から外に出て、写真を撮り歩いた。結果、12,473歩で224カットを撮る。

 

曇りの天気がかえって街の色を鮮やかに見せて、歩みもシャッターもなかなか終わりことができなかった。お昼ということもあって、いつもより画面の中に人がいれた写真が多くなった。

 

もちろんその際は、早足でさっと人ゴミを抜けて歩くことにしている。

時々入るお店でも、マスクと消毒は欠かさない。