ジム・フジーリ著『ペット・サウンズ』を読み始めたことをきっかけに、ビーチボーイズにのめり込んでいる。
正直、僕には『ペット・サウンズ』の良さが最初はわからなかった。
なぜなら(と言っていいのか)このアルバムが発表されたのは1966年で、僕が生まれる以前のこと。時代が違う。曲終わりのフェードアウトも今と比べるとめちゃ早い。コンパクトすぎる。そして、ロックという音にもほど遠い。
僕も今となっては、ロックという外見にこだわらない年齢になったからいいのだけど、それはともかく、『ペット・サウンズ』の音には馴染むのに時間がかかった。
でもね・・・・。
それ以前からも少しは知っていた「ブライアン・ウィルソン」のことと、その葛藤。
まず勘違いしてはならないのが、
その葛藤があるったから聴く価値があるのではなくて、その葛藤が音そのものに、作品そのものに色濃く反映されてることで『ペット・サウンズ』という音楽が作り出された、ということ。
単純な苦労話ではない。
今朝、僕はそれ以前のアルバム『ビーチ・ボーイズ・トゥデイ』は聴いて1日が始まり、夕方、その後のアルバム『サーフズ・アップ』を聴き、その2枚を聴いた後、その間に作られたそのアルバム『ペット・サウンズ』を改めて聴いた。
単純に言えば、
『サーフズ・アップ』の方が、暗くてロック的なアルバムだ。ブルースの曲だってある。だけど、『ペット・サウンズ』の方が評価は高い。なんでだろう?
よく判ってない僕は、単純にそう思うのだ。
暗い心境だからと言って暗い音楽が生まれるわけではない、そんなの当たり前のこと。
ブライアンさん、は、それまで通りの集中力と音楽性でさらに自分のやりたいことを、突き詰めた。その想いは音楽に色濃く反映されている。その力が、音楽の内に外に秘められている感じは、僕にも判る。
若さ、可愛らしさ、切なさ、悲しみ・・・があって、その上で美しい音楽。うーん。
その時初めて、かっこいい・・・・・と僕は感心するのだ。
ブライアンさんは、ツアーで演奏するのも辞め、とにかくスタジオで自分の音楽を追求していく、しかもその動機は、「自分は劣っているから」と感じていたからだという。共感する。
でもね、音楽そのものにどこかしら「引っかかりがある」という巧みな感じは消せない。
どれほど細かい創意工夫でも聴きては知らず知らずに聴いているもの、僕もその一人だ。
それはスティリー・ダンでもキリンジでもビートルズでも(個人的な趣味の範囲だけど)、同じく言えること。
昨夜、京都音博で聴いた『くるり』だって同じく、だ。
聞こえてなさそうで、聴いている。
それは耳だけではなく、眼でも同じことが言えるはず。
見えてなさそうで、観えている。
なんだか判らんが、頑張ろうと思う。
ちなみに、最初に書いたジム・フジーリ著『ペット・サウンズ』の日本語訳は、村上春樹。
それがあったから、僕はこの本を買った。
音楽のことは言葉ではなく、まず聴いて知るべきだと普段から思っているのだけど、今回の場合は信用できそうという気が何となくしたので、読んでみた。