日な日な余波ははなやか歩く

週1~2回くらいのペースで、ここで写真展をやってます。「繰り返し」と「凡庸」は写真と人生の本質です。

今週、考えた事。



自分の部屋に並んだ写真集やその他の分野の本は自分を形作るもので大切なものだけど、それに興味を持っていない他人にとっては何の意味も無い。ゴッホの絵画は高額な価値を持っているが、その価値はお金に換算しただけのもので、作品そのものの価値は、興味ある人にしか理解できない。

他人を理解することというのは、自分には無理な気がする。それは自分という人間を理解してもらえるということの無理さにも通じる。でも自分が自分をホントに理解しているかといえば、そんなこともないだろう。誰だって、この世界の何処かには居るのだ。だから、自分が自分の面倒を見なくてどうする。

写真を撮るだとか、表現行為だとか、そんなものは、もともと大したことではない。余裕のある距離で接するべきこと。しかし、自分を生かすためのエネルギーというのは、結局、食う寝るだけで事足りるわけでもなかったのだから、それ自体は肯定する必要があるわけだ。




今日の午後は床屋さんに行って、散髪をしてもらった。世間話や天気の話、息子の話をした。産毛剃りの時、一瞬眠った。午後からは、空が暗かった。