YouTubeにて、山下達郎と大瀧詠一の『新春放談』を年代順に聞いている。
この対談が何年の会話なのかを意識すると、また面白い。
細野晴臣と同じく、大瀧詠一の言葉も長老的な有り難みがあって、刺激になる。
なぜ古いものはいけないの? 新しいものじゃなきゃ本当にダメなの? という考え方は、僕にとっても心地よい。
感情的な言葉ではないことは番組を聴けばわかるが、まっとうな考え方だと思う。
ナイアガラーではない自分だが、そういうものは自身の支えにしたいし、ひいては自らの血と肉になればいいなと思ったりする。
そういうものに触れられることは、幸せだ。
ただ僕は未だに、大滝詠一のあの声と顔が結びつかないでいる。
なぜなら、動く大瀧詠一を見たことがないのだ。
話が変わって、今朝。
京都らしい場所にての撮影もありだなと、実行する近頃。
ただし型にはまらないように、それ以外の「今」も風景の中に入れたりする。
大瀧詠一の『分母分子論』の応用的な立ち位置で京都を撮ろうとしている。
クールな京都。