前回から引き続き、YouTubeにて、山下達郎と大瀧詠一、時々、萩原健太のFM番組『新春放談』を聞いている。
『クリスマスイブ』を作った山下達郎と『悲しい酒』を作った古賀政男を並列に書いた日本歌謡史が必要だ、という大瀧さんの言葉を聞いたのは、今朝のこと。「並列に」というのが肝心。
それを実現してくれそうな意味で、周囲の人たちは大瀧詠一という人に期待していたんじゃないかという気もする。 新作アルバムと同じくらいに。
で、「並列」ということ。
客観という立ち位置で全体を見渡す。それは冷静な主観とも言える。
写真の分野でも、すべてを並列に、または等化に世界を見ることは、撮り手の視野を広げることにつながる。 実際、ぐんとものが「見える」ようになることは、僕にもある。
「並列」=「等化」という言葉は、写真と切っても切り離せない。
歴史的に見ても、たしかスティーグリッツは等化というタイトルで雲を撮ってたと思うし、アジェや、エグルストン、ニューカラーなどの写真も同類の視点だと思う。 いや、逆にそれと無縁な写真など無いだろう。 どんな写真でも時が経てば、主観だったはずのものも客観になってしまうし。
記録もまた客観という等化。
カメラはシャッターを押せば、意味なく何でも写る。
対象が判然としなくても、撮る価値などないと思えるものでも、撮れば、写る。
それが写真の面白さだと思う。
写っていることが、見えているものだとは言い切れない写真も、たくさんある。確かにそれは写っているけど、撮り手はそれを撮ろうとは思ってないだろうという写真。
撮った写真が、意外な感じで写っていた時などは、ああ、写真だなあと僕は思う。
有名な風景なんかが、なんでもない感じに写ったりすると、嬉しい。
主観だけで写った写真は、きっと存在しない。