日な日な余波ははなやか歩く

週1~2回くらいのペースで、ここで写真展をやってます。「繰り返し」と「凡庸」は写真と人生の本質です。

迷路の途中で、笑って済ます。

 

 

 僕の「鬱」の知識としてあるのは、桂枝雀、そして中嶋らもである。 昔から興味はあった。 

 ただし自分の場合は「二足のわらじ」の生活、または人生なので、救いは眼と鼻の先ぐらいに近くにある。 昨日のようにちょっと写真を撮りに外を歩けば、そこには必ず何かがあるし、瞬間に自分の心が写真に昇華されていく。 刹那の自由があるわけだ。 

 

 中嶋らもの本によると、らもさんは根が働き者なのにもかかわらず、2度めに就職した電波系の広告代理店では、お使い的なこと以外にたいした仕事がなかったというのが原因で、最初の「鬱」になったらしい。  僕もそれに似たところがある。 じっとしていられない性分。 詳しいことは書かないけど。 

 らもさんは、そこからバリバリ仕事を増やして、有名な作家になるに到り、僕もその著書を読むことになるのである。 

 

 それとはまた違って、桂枝雀さんの場合は、落語一本の生活での「鬱」の発病ということで出口はなかったのかもしれない。 寝ても覚めても「落語」。 僕には想像がつかない。

 

 

 

 

 

 常日頃客観的に自分を眺めていても、実際のところ、どこからどこまでがそれで、ここからはそうじゃないよ、というのは、簡単に判別できるものではない。  慣れ親しんだ自分の心の迷路は、深刻さと笑い事が、表裏一体にある。 枝雀さんの言った「緊張と緩和」は、人の心の全てに通じる気がする。 

 

 

 休日の風景は穏やか。 昨日は子供の姿が数多く目に入ってきた。 みんな可愛い。 それを眺めながら、彼らがこれからどこへ行くのか、どんな時間を生きるのか、そんな漠然としたことを想う。 

 大人は理由をつけて公然と戦争をするから、がっかりする。 子供から大人になるまでの時間に、一体何が起きるのか・・・やっぱり、夢と現実の違いを知ることが大きいのか・・・・地獄という場所は、あるとこにはあるらしい。  

 

 でも、土曜の夜はフィーバーである。 サタデーナイトフィーバーとは良く言ったものだ。 心は軽い。 ご飯を食べながら、妻といろいろ話をした。 そしてこれを書いているのは、その次の朝。 今朝は撮影には出ていない。 この後早めに家を出て、写真展の材料を仕入れるついでに、撮影もしようと思う。 写真のプリント作業は、楽しいから。

 

 

 


 

 明日からは、どんな気分になるのか、どんな気持ちでいられるのか、それはあっしには判らないでやんす。 

 

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