前回の大阪の続き。
高架下を抜けると前に見えるビルに掛けられた垂れ幕には、「西成から覚醒剤を追放しよう」の文字。
「西成」という町の名前と「覚醒剤」。 その瞬間、僕はここに何を撮りに来たのか、考えて込んでしまった。 人間の匂いの強い街という印象を求めてはいたが、写真でこの街をドキュメントしようとするつもりは、毛頭なかった。
もしそれがあったとしたなら、それは、とある写真家が何処か知らない国に出向いて、そこで見つけた「写真らしさ」を形にするというのと、ほとんど変わらない。 そういうのには、僕は気が進まない。
僕が欲しいのは、風景と物と人間なんかが持っている「表面」だけである。
新世界で見つけた映画館の横の路地で上の1枚を撮り、続けてシャッターボタンを押そうとした時、開いたドアから洗面器を持ったおっちゃんが出てきて、「撮ったらダメ」と、外国人なまりのアクセントで叱られてしまった。 すぐに、謝った。 当然の話だ。 相手のつまらない好奇心のために自らを撮られるのは、僕だって嫌である。
だけどその反面、表現というのはエゴイズムから端を発していることも事実である。
エゴなしでは、そこに価値や面白さは生まれるはずはなくて、むしろ世間の常識をサッとかわしながら、いとも簡単そうにその表現を成立させてしまっているという事実が、その人の才能である。
よって、僕がこれまで撮ってきたのは、僕なりの才能の結果である。 写ったものはそれほど特別な事ではないという諦めと同時に、写真によってこそ掬い上げられた特別もあるのだという事実。 それは意図しただけで生まれるような簡単な行為ではなかったりすることをわかっていただきたい。
「写真のためにはなにも存在しない」という言葉は、富岡多惠子著の『写真の時代』の一文である。 事あるごとに、僕はこの文章を読んでいる。
写真のために遠い国へ出向き、それらしい写真を撮って帰ってきて、あとは展覧会だ出版だ・・・というのは、僕は好きになれない。 異国の風景の珍しさにごまかされてはいけない。 自らの持つ眼を自立させなければ。
それらしい写真は、それそのものにはなり得ない。 永遠に交わらない平行線のようなもの・・・・・・。
ダメだ。 眠い。 気絶寸前。 限界なので終わります。