日な日な余波ははなやか歩く

週1~2回くらいのペースで、ここで写真展をやってます。「繰り返し」と「凡庸」は写真と人生の本質です。

森の眺め方、1




琵琶湖の湖北の山間の小さな村で育ったので、僕は立派な田舎ものだ。

今はイノシシによる農作への被害が多いらしいが、むかしは猿だった。
畑で、ちょっとスイカを植えても、いいのは、大概、猿に食われてしまう。母は言ってた。今も言ってる。

学校帰りのバスから、山のふもとの畑が広がる場所で、猿の群れが走り回ってワアワア言ってる風景も見たりした。
自然だ、野生だいう以前から、そんな中にいた。
現在そこは、限界集落という部類に入る場所なのだろうと思う。

そんな環境を謳歌せず、家で好きな絵やマンガを描いて育ったものだから、結局僕の精神的状況は、田舎と街のどっちつかずで、京都で暮らす今も、うっすら居場所を無くしつつある。
たぶん日本の中でも、そういう人は、けっこういるのではないかと想像する。

猿の見方ひとつにしても、動物園の猿山を「かわいい」と眺めるのは、どうしても共感できないし、環境だなんだという問題意識にも、気持ちはともかく、積極的な発言や行動などはあまり気が進まない。

どの視点に立って、モノ事を見ていいのか、よくわからないことは多い。
と言って、無関心なわけでもない。
発言する際の外見的な実際が、自分の下の方にある意識とは、そぐわないという想像が先だってしまう。

2月12日にETVで放送された「坂本龍一 フォレストシンフォニー 森の生命の交響曲」。
樹の生体電位を音楽に変換するということ、それはとても興味あるのだけど、発言だとかになると、どこか何だか、気持ちが曇ってしまう。
人の問題に対する意識の高さ、低さというのはいろんな現状があるのだろうけど、ううんと唸ってしまうのは、なぜなのだろう。