「アジェをめぐる冒険」などと、タイトルをつけてしまったが、
「冒険」とは大袈裟だった。あとで気がついた。
アジェの最晩年、
マン・レイによって『シュルレアリスム革命』誌に写真が掲載された際、アジェは自分の名前は紙面に載せないなように望んだというエピソードが残っている。
当時主流だった写真と、自分の撮っている写真は違うというコンプレックスがあったのだろう。
生活のために始めたとはいえ、俳優、画家という経緯を経て写真を撮り始めた人だから、芸術に対する意識は消えていなかった。
だけど、撮っている写真は「彼ら」とは違う。そういうコンプレックス。
写真を撮るという行為は、案外不自由なものだ。
意識するしないに関わらず、自分という人間に縛られる。自らの嘘も自覚をしてないといけない。
仕事としての撮影からはじめても、自分なりの美に対する意識は隠せない。
撮ったら撮ったで、写真には驚きというものがある。
その驚きにハマってしまう人種はいるものだ。 それは他人事ではない。
その結果アジェは、ガラス甲板の重い暗箱で8.000枚もの写真を残した。
とりつかれたようにという表現があるが、写真という行為とパリという街が、彼を夢中にさせた、それは間違いがない。
学者や評論家の言葉だけでは、リアリティーが持てずにいたが、
いざ、自分がそういう目にあってみて、アジェの写真が自分にも見えるようになってきた。
今でこそ日常的なものや複写的行為の写真は当たり前だが、アジェが撮影行為を始めた1898年・・・とは日本では明治31年、調べてみると第三次伊藤博文内閣発足の年とある・・・は、2020年とは違う。 まず写真の道具も高価なものゆえ、撮る側も撮られる側も身近なものではないから、互いの関係性も、そこに至る会話も、今とは違ったろう。
絵画を追っかけた写真の時代、アジェが撮った写真は、そのままの写真だった。
そのままの写真だけど、そこに別の何かが見えた。
量こそが、質。
それまで誰もそんなことやってなかったわけだ。
目の前にあるものを、そのまま写真にする、それはどういうことか?
あれ? 考えてみれば、今もその問題は続いている。