日な日な余波ははなやか歩く

週1~2回くらいのペースで、ここで写真展をやってます。「繰り返し」と「凡庸」は写真と人生の本質です。

マグリッチョ!!!






ミュージアムショップ。

興奮冷めやらぬ中、観客を誘い込むのは、良い商売だとあらためて感心する。
自分も図録以外にいろいろ欲しくなってしまったが、寸でのところで気持ちを抑えた。

ルネ・マグリット
いろんなものにその作品がプリントされれば、どれほど購入意欲をそそるか、久しぶりに自分の身を持って体験した。
いったい何なのか。山積みにレイアウトされた図録には、意外にも手を出す人は少なかった。





おおざっぱとは言え、人の一生分の流れを見せた展覧会だから、そのウネウネ加減をかいま見ることができ、それは興味深いものがあった。戦争を境に作風の変貌はあったが、回帰という名目通り、落ち着くとこに落ち着いたとこは何だか面白い。
始まってしまった作風というのは、根も葉もないところで生まれてはないのだと思った。

しかし、これほどまでにキャッチーな結果になるとは、美術というのはよくわからない。
当初は暗い印象だと思ったが、見ていくうちに何か違ってくる。

扱われるモチーフが次第におなじみになっていくせいか、幾らかの笑いも誘われ、見る側にも慣れが生じる。
それは当たり前と言えば当たり前のことなのだが、だからと言って、ど真ん中にその球がほり投げられるわけでもない。
大体のとこでキャッチーで、しかしその深層は別のところにあることを感じ取っているわけだ。見てる側が。
その辺りがイラストとは異なる部分だと思う。

そんな作品の数々が、マグカップになったり、お菓子の缶になったりして、「わあ、欲しい」になるのだから、作品の持つ「何か」は今はどの辺りにプカプカ浮かんでいるのか?・・・・って、こんな芸当、わざとじゃできねーよ、ていう感じ。

京都市美術館を出て、さあ、1度気持ちをチャラにしようと思い、デジカメを取り出し、撮って自分の気持ちの熱を冷ます。図録の印刷の具合よりも本物の方が現代的。青い空、打ち寄せる波、舞台装置のような配置加減。ああ、心地よい。

そうだ。とにもかくにも、作品が美しいというのは良いものだと、あらためて思った。