日な日な余波ははなやか歩く

週1~2回くらいのペースで、ここで写真展をやってます。「繰り返し」と「凡庸」は写真と人生の本質です。

個展、『見物』(けんぶつ)の思い出。その2


 どうしたら「自分の写真」が手に入るのか? 
 
 それは未だによくわからないことなのだが、だからと言って変わったことをする気もなかった。技術だけを見せる写真は大嫌いだったし。それは今でも同じだ。
 
 富岡多恵子さんの『写真の時代』の言葉を借りれば、「根拠のない誇張」には手を出さず、自分なりの写真表現を手に入れる手がかりとして、モノクロ写真というのは自然な選択だった。それは20年前のこと。
 
 
 
 自分の中で引っかかりのある何か目の前にして撮影する。ラボにプリントをまかせないで自分でプリントするモノクロ写真はその「何か」をさがすことができた。結局自分が欲しいものは、物の表面・ディテールだった、と思う。
 イルフォードのフィルターを使ってコントラストを選び、引き延ばし機の明かりの下、自分で作った覆いを駆使して、写った物の表面を丁寧に焼き込む。

 気に入った1枚の写真を手に入れる。それは写ったものが何なのか、と同時にどう写っているのか、ということで、すべてはそこに集約される。あたり前のようだけど、何か不思議な気もしないでもない。やりたいことって何だっけ? これで合っているのか?

 そんなことを考えながら、この写真展では約100枚のバライタ写真を展示しました。

 

写真の時代 (1979年)

写真の時代 (1979年)