たくさんの写真を撮ることはできても、「写真にできること」を見つけるのは、僕には簡単なことではない。
富岡多恵子は「あらゆるモノ、あらゆる人間、あらゆる文化、あらゆる生活、などなどは、写真を撮られるために存在しているのではない」(『写真の時代』1979)と、書いている。
写真にできることは、ただ日常を客観すること、表現という思考から逃れ、何も考えずに、ただ写真を撮ることだと思う。
その前提としてあるのが、「この世界とは何なのか」という永遠の疑問。
それがある限り、撮り続けることはできると思う。
まあ、できないなら、無理に続ける必要もないのだけど。