その分野の持っている独自性というのがあるが、タルコフスキーが作った映画は、他に代わるものがない。
映画とは、こういうものでもあったのだと、今だからこそ、思える。
僕のような中途半端で、いっちょかみの人間が判ったように言うものでもないが、確かに僕は『鏡』に呑まれてしまった。
その良さを形容する言葉はいくらでもあると思うが、こういう作品が大切にされる時間が少しでも長く続いてほしいと思う。
映画芸術として珍重されるのではなく、現実に実効性ある存在であってほしいと思う。
僕の中でも、しばらくこの高揚した感覚をとどめておきたい。
一昨日から、タルコフスキーの著書『映像のポエジア』を拾い読みしている。
きっかけは、NHKの朝のニュースで、坂本龍一の新譜に関連するワタリウム美術館での展覧会の映像の中に、坂本さんの思考をたどる書籍として、この本が写ったことに端を発する。『サクリファイス』の森のシーンの表紙は、見逃さない。
『鏡』の風景には惹かれる。草原を揺らす「風」と、「炎」の色の鮮やかさや、不確かだけど光と影が織りなす神秘的なシーンの数々。でも、それらは入り口のことであって、そこから創り出される「それまで知覚されなかった何か」が写し出されている。僕は鈍感な人間だから、その辺のことを上手くは書けない。
それこそが観る人の心を写す「鏡」として、この映画は存在するのかもしれないと思う。
下の写真は、タルコフスキーのポラロイド写真集。むかーし、丸善で見つけて、即買った。