日な日な余波ははなやか歩く

週1~2回くらいのペースで、ここで写真展をやってます。「繰り返し」と「凡庸」は写真と人生の本質です。

秋の空に偶然を見る。

 

 

 



 

 

 

 

 

 

 

 

 夏の終わりの入道雲を撮ったことをきっかけに、空にレンズを向けることが多くなった。 

 

 空の模様の濃淡を撮るには、モノクロの方がいい気がする。 光の色に心を奪われた時はカラーで撮るけど、それ以外はモノクロ。 嘘かホントか自分でもわからないけど、「情」が空の濃淡の中に写り込む気がする。 

 

 偶然に出会った世界の表層の中に自分を見つける、それが写真の良さの一つである。 文学の世界にあるような、自己をさらす「告白」とは違う。 心地の良い痛々しさ、というのか、それが向こうからやってくる、そういうもの。

 

 ちょっと前に映画『ドライブ・マイ・カー』を見た。 

 よかったけど、やっぱり文学の映画、だと思った。 村上春樹の小説を読むときにはあまり感じない、映画化ならではの「告白」的なセリフ。 言葉で映像をいじくるのは、あまり好きではない自分に気がつく。 映画はまず、「画ありき」、そして「時間ありき」で、観たい。 

 『ドライブ・マイ・カー』には、それが無かったというわけではないけど、何だろう? 上品すぎる感じが嫌なのかな? 

 西島秀俊が「僕は強くなりたい」というセリフを言ってたけど、たぶんそんなの無理だと思う。 人間の本質というのは、たぶん一生変わらないと僕は思っている。 表面ではなく中身のそのまた奥の方のこと。 幼少期にならともかく、いいおっさんが、そんな事言っても、老いでゴマかすしかないんじゃないか。 僕はそんなところに自分のこの先の未来を見ている。 それでいいじゃないか。 

 

 で、そんな人間たちにも、時がすぎていきます的な「画」を写すのが映画にとって、いいんじゃないかと思う。 もちろん「さじ加減」は微妙なのでしょうが。 この前ここで書いた小津安二郎の『東京暮色』もそんな感じだったし、フェリーニの『アマルコルド』も季節が通り過ぎるように映画も進んでいく、物語があるようでないような感じ。 

 そういう映画が、僕は好みです。 人それぞれでしょうが。

 

 つまり言いたかったのは、写真は自己の告白ではない、ということです。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 写真集、売ってます。 shop または ホホホ座浄土寺店 にて 。