住んではいるけど、京都ブランドみたいなものが嫌いな僕は、京都を綺麗に撮ろうとする写真家も写真も好きではない。むしろ嫌いだ。
何が嫌いなのか? と言えば、ただ写真というイメージを追随するだけの行為をバカバカしく思うからだ。そう僕には見えてしまうのだ。
そんな自分でも、春の桜は好きだ。良い気分になれる。綺麗というその理由だけで。
どんな国の人でも、桜を見て嫌いだとは思わないと思う。自分の素直さを認められる人ならば。 そういうものがある日本という国は、自分にとってとても心地よい場所だという気がしている。
桜以前に自然の密度の濃さ、と言ってよいだろうか? そういうものがある土地。
自然は、その中に属する人間には、時間と同じく、もともと推し量れるものではないから人の心は落ち着く。
知っている知らないという話ではなく、何も話してくれないということが、それでいて絶対的に在るというのが、揺るがない、それでいて揺らいでいるというのが、いつまでたっても人の心の器に収まらない、そんなようなことが、人の心を落ち着かせてくれる理由だと思う。
それは森の奥深くではなくても良い。
街の中に立つ樹は偽物ではないはずだと、最近僕は思うようになった。
だから明日は、家の近所で桜を撮ろうと思う。