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1日写真を撮って歩いていても、心の中では、いろんな局面がある。
偉大な冒険とは、同じ顔の中に、
日ごと見知らぬものが現れるのを見ることだ。
それは世界を回るどんな旅行より偉大なことだ。
という、ジャコメッティのこの言葉が、僕は好きだ。
この言葉を思い出すと、今自分が立っている場所に心を定めることができる。
共鳴する言葉。 心の指針は必要だ。
此処ではない何処か、そんなことを思いながらも、僕はずっと京都の街を歩いている。
繰り返し、繰り返し、「いつか来た道」ばかりを写真に撮っている。
繰り返しの果てに見えてくるもの、って何なのか?
たぶん、それを言葉にすることは簡単ではないはずだ。
繰り返しの果てに浮かび上がってくるおぼろげなもの。
それを安易に言葉で表せるくらいなら、世の写真家という人種は、もうすでに存在していないと思う。
グイド・グイディの『 IN VENETO 』という写真集を久しぶりに開いたら、人が写ってない写真の方が、写真らしく思えた。 画面の中に人が写るとそこに物語らしきものが生まれ、それに写真が引っ張られていく。 それが悪いわけではないが、写っていない方が、不思議と奇跡的に写った写真という印象を持った。 今現在の僕の眼と思考が、そんな状態なのだろう。
歩いていて、街のどの辺りに自分がいるのか、その方向感覚はおおよそ意識してはいるが、基本的には、京都という意識はほとんどなく、名前の無い何処でもない街を、僕は歩いている。 彷徨っている方が近いか。 目的地もなく、歩きながら、いつも途方に暮れている。 そろそろ帰るか、と意識する瞬間までは、次は何が見えるのかを探し続けている。
写真の中には、始まりも終わりも必要ない。
ただその一点の的にむけて、弾を撃ち続けるような感じだったり、心が流されたり、反射的だったり、驚いたり。
全部些細な事ばかりだけど、それに気がつけることの味わい深さが、写真の面白さの一つだと思う。