夜明けの撮影が物足りなかったから、午後にも撮影を続けた。
目的があって出かけたけど、撮りながら歩き出すと、バスに乗る時間ももったいなくなる。
結果今日一日で、23,716歩歩くことになった。
その割には撮った数は、230カット。 内容的にも物足りない。
「撮れた」感もない。
今朝から、よくない記憶ばかりが蘇る。そういう流れの中にいるらしい。
人間、こういう時もある。
前向きに生きるのは、良いことだ。そういう強さも必要だ。
だが、無理はいけない。
人は内なる「暗さ」を認めることも必要だ。
だが認めたところで、それを口に出せる場所も簡単にはないようにも思う。面と向かって、誰彼構わずに弱音なんて聞きたくもないし。
日常の場面は仕方がない。
ただ、社会の枠組みや、お金の束縛を飛び越えなくて、何のために美術表現はあるのだろうか? と思うことはある。
人間そのものすら省みることができないでいることに、もどかしさを感じる。
単純に区分けができないから、さらに自己の人間的能力の足りなさに悩んだりもする。
昨夜、夜中に目が覚めて眠れない間、自分の中にある「自然」の経験が体と心に及ぼす影響のことを考えた。
だけど、それは単純に数値化できるものではないから、他人と比べることもできない。
僕自身、小さな山村に生まれ、普通に学校に通い、あまり自然の遊びに興じることもなく、むしろ都会の文化に憧れた子供時代を送っただけだから、偉そうに言えるものではない。
だけど、生まれた時から1分1秒刷り込まれた「自然」の「環境」や「風景」には、良い、悪いという単純さを飛び越え、お金だけで片付けられない、生きることの奥深さなるものがずっと流れていると思う。 人間の都合に沿った世界ではないからこそ。
僕の能力では、その「奥深さ」からくる何かを言語化することは無理だけど、「自然」の環境が人に及ぼす影響というものには、自分では隠しきれない何かがあるはずだと思う。
コンプレックスから来る「弱さ」も、その一つだろうし、逆にそこから生まれたものも、きっとあるだろうし。
「配られたカードで勝負するのさ、それがどういう意味であれ」
これは、スヌーピー の言葉らしい。調べたら出てきた。
これって、「=ハッピー」の言葉ではないでしょ。
その中に含まれた意味合いを知るために、僕は一生の時間をかけるしかないわけだ。