日な日な余波ははなやか歩く

週1~2回くらいのペースで、ここで写真展をやってます。「繰り返し」と「凡庸」は写真と人生の本質です。

ハッピーでなければ、いけないのか。その2

夜明けの撮影が物足りなかったから、午後にも撮影を続けた。

目的があって出かけたけど、撮りながら歩き出すと、バスに乗る時間ももったいなくなる。

結果今日一日で、23,716歩歩くことになった。

その割には撮った数は、230カット。 内容的にも物足りない。

「撮れた」感もない。

 

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今朝から、よくない記憶ばかりが蘇る。そういう流れの中にいるらしい。

人間、こういう時もある。

前向きに生きるのは、良いことだ。そういう強さも必要だ。

だが、無理はいけない。

人は内なる「暗さ」を認めることも必要だ。

だが認めたところで、それを口に出せる場所も簡単にはないようにも思う。面と向かって、誰彼構わずに弱音なんて聞きたくもないし。

 

日常の場面は仕方がない。

ただ、社会の枠組みや、お金の束縛を飛び越えなくて、何のために美術表現はあるのだろうか? と思うことはある。

人間そのものすら省みることができないでいることに、もどかしさを感じる。

単純に区分けができないから、さらに自己の人間的能力の足りなさに悩んだりもする。

 

 

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昨夜、夜中に目が覚めて眠れない間、自分の中にある「自然」の経験が体と心に及ぼす影響のことを考えた。 

だけど、それは単純に数値化できるものではないから、他人と比べることもできない。

 

僕自身、小さな山村に生まれ、普通に学校に通い、あまり自然の遊びに興じることもなく、むしろ都会の文化に憧れた子供時代を送っただけだから、偉そうに言えるものではない。

 

だけど、生まれた時から1分1秒刷り込まれた「自然」の「環境」や「風景」には、良い、悪いという単純さを飛び越え、お金だけで片付けられない、生きることの奥深さなるものがずっと流れていると思う。 人間の都合に沿った世界ではないからこそ。

 

僕の能力では、その「奥深さ」からくる何かを言語化することは無理だけど、「自然」の環境が人に及ぼす影響というものには、自分では隠しきれない何かがあるはずだと思う。

コンプレックスから来る「弱さ」も、その一つだろうし、逆にそこから生まれたものも、きっとあるだろうし。

 

「配られたカードで勝負するのさ、それがどういう意味であれ」

これは、スヌーピー の言葉らしい。調べたら出てきた。

これって、「=ハッピー」の言葉ではないでしょ。

その中に含まれた意味合いを知るために、僕は一生の時間をかけるしかないわけだ。

 

 

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