日な日な余波ははなやか歩く

週1~2回くらいのペースで、ここで写真展をやってます。「繰り返し」と「凡庸」は写真と人生の本質です。

打てども響かず。

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いつも壁にぶつかっている気分になる。お先真っ暗な気分。

明日の日曜の朝は雨降りらしい。写真を撮りに行けないのが辛い。

撮っている時だけが我を忘れられる時間なのに。

 

自分という人間の限界をひしひしと感じる。

限界というとおこがましいが、何と言えばいいのか。

自分を許し、楽しめる瞬間が、ほぼ無いと言えばいいのか。

今日の夕方考えていたことのひとつに、

人の意思というものは何層にも重なっていて、普段の日常会話の中で、どの層の自分で、どう話せばいいのいか判断しているのだろうが、自分の場合、それがとっさに判断できないということ。

永年、頭の中を行ったり来たりして、わだかまりをひたすらくり返す自分がいる。それは簡単に治せるものではない。反射神経も鈍っているし。

「大人としてはそう言うべきだけど、個人としての自分はそう思ってない」から始まって自分の内側を探り出したら、相手との会話の腰は据わらない。居心地も次第に悪くなる。

加えて、もともと僕は意地が悪い人間なのだ。だから無駄に毒を吐きたくないという考えが先に立つ。それでいて器用でもないし、とどのつまり、程よい言葉も出ない。

結果、打てども響かず、である。

 

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そんな言い訳も、本当は言うべきではないのだろう。

すべて、引き受けるしかない。自分自身のことだから。

とは言え、居心地の悪さは毎日の憂鬱であり、その憂鬱はやがて人生をのっとることにもなりかねない。気を抜けば、道を誤りかねない事態も起こりうる。

まさに悪循環。

 

だがしかーし、居心地が良いところからは何も生まれないとも言える。

居心地の悪さがあればこそ初めて、そこから何かが生まれるものである。

 

自分の場合も結果はどうであれ、自らの居心地の悪さをエネルギーにして写真を撮り続けるに至っている。写真をやめることになれば、本当にヤバいかもしれない。

そんなわけだから、間違っても、金や名誉のためだけに写真をやっているのではない。もともとどちらも無いけど。

まあ、どっこいどっこい。奇跡のバランス状態としておこう。

 

書いていくうちに自己肯定の文章になってしまうのが、また、面倒臭い。

 

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