春の日。
陽が傾いてくると、誰の姿もきれいに見える。
平和な夕刻の風景。日常の姿。写真を撮る。
でも、そんなことでは済まされない。
そんなことだけで、高を括る訳にはいかない。
その考えだけは、自分の中にある。
日常の気分に流されていては、もはや写真は成立しないのだ。
いや、写真など成立しなくてもよい。問題は違うところにある。
何処かに全てが行き着く先がある、そんな気がしている。
初めから終わりまで、自分の力量では何の言葉に表すことはできないけど、何処かに「それ」がある気がしているのだ。
人に寄り添って写真を撮ることは、たぶんもうできそうにもない。
いや、初めからそうだったような気もする。幼少期からそうだったのかもしれない。
自分は他人と違う場所にいた。
心に毒を持ってない人は、創作などできるはずはない。違和感を抱えてない人がどれだけ創作と叫んでも、それは商売という姿にしか写らないかもしれない。同調は毒にも薬にもならない。
自己の分析などしても言い訳にしかならないので、これで止めにする。
ただし今回書いたことは、自分の資質がトポグラフィクスというものに転嫁される要因でもあるのは確かだろう。
そして、「人を中心にして世界を見てはいけない」という視点の存在は、いつの時代にも事実であることに間違いはない。
そのことを踏まえた上で自らの気持ちとしてあるのは、根拠のない誇張行為を自身の表現と勘違いするのは、みっともなくて耐えられない、ということなのだ。