日な日な余波ははなやか歩く

週1~2回くらいのペースで、ここで写真展をやってます。「繰り返し」と「凡庸」は写真と人生の本質です。

良いタイトルが思いつかない。

 

 

 

 

 休日の度に撮っている、ここでupしたり、しなかったりの写真の中から、一掴みの写真を選んでシリーズの構成をする、というのが僕の作業の大筋になる。 

 

 そんなものを撮ってどうなる? などと後のことは考えずに、その瞬間の視覚的興味に引っかかったものをどう撮れば自分の思考に合った写真になるのか・・・構図の配分と画面の濃度をどうするか・・・それだけを考える。 それだけでどうにかしたいと望む。 

 労力を惜しまないということだけで、やっていることはめちゃくちゃ単純。 今時、こんなやり方で伝わる作品になるのか? 疑問はある。

 かと言って、やり方は変えることもできない。 人間そんな簡単には変われない。

 

 

 

 

 変われない、理由はある。 

 

 カメラと写真の関係は、紙と鉛筆の関係に同じ。 1本の鉛筆で綴られた言葉、1本の鉛筆で描かれた絵画。 そこに何かが生まれれば、それはまぎれもない創作だ。 写真を撮ることに限らず、あらゆる創作の基本はそうあるべきだと思う・・・ということ。

 

 ただ、単純に言葉で表すことができる理由があるからそうなってしまったのかというと、それだけでもないとも思う。 生理、体質、性格・・・不精。 これらは簡単にどうこうできるものではない。

 

 あと、このシリーズに付けたい良い言葉・タイトルが見つからない。 これまでにいろいろ考えたことがこじれてしまって、自分の中で満足のハードルが上がってしまった。 後になればなるほど、むづかしくなってしまう。 

 

 

 

 

 

 休日の今朝は、やる気が少しある。 頭にパッと目的地が浮かんだ。 

 結果、13,703歩を歩いて、346カットの写真を撮る。 主に河原町通りを下がって行ったのだけど、通りを挟んで西側は歩いてないところも結構あって、新たな眺めも見つけられて新鮮な気持ちになれた。

 

 やはり、自分が撮っている対象はそこに在る「物」ではなくて、その時の「状態」であるように思う。 生きている限り自分自身に同じ状態はない。 だから、いくらだって撮り飽きることはないのである。 でも案外、写真をそういうものと捉えている人は少ないのかもしれない。 技術の競い合いだけで済むなら、写真はきっと・・・・面白くないだろうなあ。

 

  

 

 

 

 

 

 

 

 ブライアン・イーノのインスタレーションも終わったみたいだし・・・と思ったら、9月3日まで延長したみたい。 僕は観に行きましたけど。 きっと良い思い出になって、この先も記憶に残ることでしょう。