日な日な余波ははなやか歩く

週1~2回くらいのペースで、ここで写真展をやってます。「繰り返し」と「凡庸」は写真と人生の本質です。

そして人生は続く。

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 日常に紛れながらも刺激的な日々。 何かしていないと、とたんに落ち込む。 

 

 昨日、天皇誕生日の午後は空模様もすっきりしない、何だか空回りの気分。 用事を済まして妻と別れた後、1人歩いて帰る。 しばらくは鞄からカメラを出すこともしなかった。 

 

 好きなものには目がいくが、撮ったところでこれまでと同じパターンにしかならないことがわかってしまうと、写真の中に虚しさがつのるだけ。 気づきや発見なりの「何か」がないと、撮っても意味がない。 手探りで見つける何か。 

 気分が変わるタイミングを待って、蹴上を歩く。 ただし、観光スポットど真ん中は避けるけどね。 

 

 そんなことを言いながらも、観光を楽しむ人たちを撮る。

 

 

 

 

 そんな気分じゃない時も撮る。 写真を撮ることに飽きた、その後に撮る写真には何が写るのか? いや、写真だけの話ではない。 むしろ、人生のほとんどでは、それではないかと思う。

 仕事だって、慣れと倦怠の毎日の中で、誰もが何かを見つけて生きている。  

 

 ただね、仕事に過信した人生も嫌なんだよね。 お金の世界は「自然」を受け入れないから。 ビジネスだと言って全てを肯定させる世界は、少しでも「自然」の本質らしきものを感じたことのある人間にとっては、何だか、虚しい世界。 アート至上主義も、同じく。

 僕はそんな毎日を、ふらふらしながら歩いている。 そういう意味では、楽しいと思う瞬間など、若かった頃の一瞬にしかなかったのかもしれない。 

 



 そんな昨日の午後。

 うろうろ頭の中で考えながらも(ていうか、今これを書きながら考えているのか)、写真を撮っているうちに、何かは見え始める。 

 その何かが何なのかはわからないけど、自分の心に多少なりとも生きている感触らしきものが、芽生える。 止まない雨はないじゃない・・・というセリフは、何のドラマのセリフだか知らないが、そんなたわいもないことで救われるのも、すべては私の日常。

 

 で、昨日撮っていて、すごいと思ったのが下の写真。

 

 

 なぜかはわからないけど、その時はそう思った。 そういうのって、あるじゃない?