日な日な余波ははなやか歩く

週1~2回くらいのペースで、ここで写真展をやってます。「繰り返し」と「凡庸」は写真と人生の本質です。

興味ある街。

 

 今朝、4時を過ぎた頃に家を出て徒歩で駅に向かい、5時ちょうどの京阪電車に乗る。

 始発から終点までウトウトとしながら、起きて駅に降り立つ頃に本当の朝を迎え、自意識は再び目を覚ます。 それはちょうど良い塩梅だと思える。 肩の力が抜けて自意識が「0」の状態。 

 

 

 目的の駅に到着し、地上に出て、今朝も「西成区」から歩き出した午前6時半頃の出来事は、その後の「なんば」や「心斎橋」を歩いて、計565カットの写真を撮ったことによって、昨日のことのように意識の向こうに霞んでしまう。

    



 しかし、問題も残る。

 自分の中の写真を撮りたいという欲望は、「西成区」という街の存在感によって、単なるスケベ心にすり替えられてしまったということ。

 他人をあっと思わせるほどには至らなくても、「西成区」で撮った写真だと言えば、相手が受け取る印象には変化が起こる。 ・・・・僕はまずい事を言っているだろうか?

 

 

 写真体験としての「新しい世界」を感じている「大阪」。 それを形に表すには、「新世界」や「西成区」という対象は外せない。 そういう自意識から始まった行動に、後ろめたさも感じている自分がいる。

 もちろん、まだまだ撮り重ねて、その上で自分の附に落ちるところを導き出そうとは思っていることに疑いはない。 

 

 

 そこで試される、写真の暴力性という問題。 それに自分はどこまで耐えられるのだろう? 今回のように、例えば「西成区」のような街で、自分は人にレンズを向けることができるのだろうか? 必然性がないなら、無理はしなくてもいいのだが、良い写真を撮るという目標もある。 利己的な意味じゃなくて。

 

 

 でもね。 実際、怖いよ。 

 今朝だって、体をユサユサ揺らしながら弱々しく歩く初老のおじいさんにすれ違いざまに、「下手くそ」と言われたし。

 

 それがトボけた声だったから、こちらもニヤッと笑って済ませられたけど、他人の心の中ということで考えれば、やっぱりビビってしまうとこもある。

 道端で寝転がっている人だって、間近に撮ることは絶対に出来ない。 倫理的な問題、ていうか、そんなの撮っても自分が嫌だし。 そんな事を言いながら、この後行った「なんば」や「心斎橋」では、お店や劇場に群がる人々をバンバン撮っている自分もいる。

 

 

 上の写真の中央に写った看板に「飛田新地」の文字。 その手前には車いすのおじいさんがいる。

 この「飛田新地」という文字を風景として見たのは僕は人生で初めてだけど、こういうものを生きているうちに実際に目にしとくのも悪くはないとも思ったりする。

 

 

 あと、下の写真の奥にある墓地。 さっき調べていたら、『じゃりン子チエ』小鉄とアントニオJr が対決した墓地のモデルになっているらしい。 

 

 そんな感じでこの界隈の地図は見てても飽きないし、それ以前に『じゃりン子チエ』も、大好きだし、自分は多いに興味は持っている場所であることには間違いないのだ。

 

 

 そんな感じで、明日の日曜の朝、僕はどこにいくのだろう?  まだ決めてない。 ワンクッション、置いとこうかな。