日な日な余波ははなやか歩く

週1~2回くらいのペースで、ここで写真展をやってます。「繰り返し」と「凡庸」は写真と人生の本質です。

写真と言葉について、4  その1

言葉による説明がない写真は、見る側がどう受け取ってもかまわないということ。
そのうちのひとつの解釈として、「わからない」ということも含まれる。
それが、どう「わからないのか」によって、よい意味、悪い意味、いろいろある。

やはり写真は言葉無くして、成立しないものらしい。
現在のように、いろんな種類の写真が、表現の分野だけでも多岐にわたるものが存在すると、それは見る側も迷うのは当然のことだろう。

また曖昧さを無くし、その方向へ「力」の持った作品であろうとすれば、言葉の手助けはあるべきだろう。
何の題材が「力」を持っているのか、それも時代によって異なる。

もし戦争一色の時代だったならば、説明せずとも、その写真に何が写っているのかは、わかるだろう。
逆に今の日本では、何が「力」を持っているのか、それは見る人によってのことだとして、結局それは曖昧で、わかりにくい時代と言えるかもしれないし、篠山紀信が「AKB48」を撮っていることがまさにそれだとも言えるのかもしれないし、いろいろある。もちろん、AKB48以外もあるのだろうし。


Wolfgang Tillmans  “Freischwimmer”