日な日な余波ははなやか歩く

週1~2回くらいのペースで、ここで写真展をやってます。「繰り返し」と「凡庸」は写真と人生の本質です。

不確定な感じ














夜が明けてすぐ。河川沿いに続く細い道を走る。車を止めて、外の空気を吸い込んで、そして辺りを見回す。
コンクリートの地面に立って川の流れを覗くと、赤と白の冷蔵庫2台が転がっている。
さっそく見つけてしまった。ゴミを捨てる人間も同じ道筋を行き来する。
そんな写真を撮ろうとする人間も同罪なのだろうか。

人とすれ違うこともなく、村の奥の神社の石段をのぼり、手を合わせる。写真の欲求に身をまかせた行動は、人から見れば不審なものだと思う。一体ここで何をしてるのか。ここで何を撮ろうというのか。道の向こうに座った犬は静かにこっちを眺めていた。やさしい犬だ。会ったのはこの犬だけ。他には誰も会わなかった。

地図を眺め、その場所を想像しても、考えは必ず一新される。たどり着いた実際の場所で見つける「何か」は、いつも予想外だ。面白くもあり、つまらなくもある。何だかよく分からない。不確定な感じがよい気がしている。そして撮り過ぎないのが良い。空振りばかりでは消耗する。
昨日の朝は、ほとんどドライブだけに終わった。運転席から見るだけの風景は肌身に刺さってこない。それはわかっていながらも車から出るでもなく、通り過ぎてばかりが続いた。空が曇っていて黄色い光なのが嫌だったからかもしれない。
思い返せば、青い光に惹かれることが多い。光の色だけで世界の見栄えが変わるのだから、写真の欲求なんていい加減なものだ。コトの有り無しは二の次。