日な日な余波ははなやか歩く

週1~2回くらいのペースで、ここで写真展をやってます。「繰り返し」と「凡庸」は写真と人生の本質です。

胸に一物あり。

 

 

 

 昨日は朝とお昼の2回、写真を撮って歩き、ヨドバシカメラやJR京都駅のビルを2回眺めた。 

 

 自分の写真に何が写っているのか? 過不足なく今の瞬間に何か手応えを感じているか? そのことはいつも撮りながら考える。 

 街という素材だけでいえば、どこを歩いてもすでに見ているものが多いのだから、それほど繰り返し撮っているのだから、初見の驚きは僕にはほとんど無い。 しかし、それでも尽きない興味は今日もある。 その興味の中心にある何かが僕の写真を満たしてくれるものである。 あらためて言うが、『京都』という具体的イメージは、僕の写真には特に必要なものではない。 

 

 

 

 

 夜が明ける時間に見ているのは、闇ではなく、色。 

 「物」の存在が見えてくる瞬間がある。 

 それは色と表面の質感や形状によって表され、そこに光が当たる。

 色は光によって作られ、その光を作るのは太陽であり、 

 その太陽がどの位置にあるのかによって、光の色は変化する。 

 物と色が重なり、運よく僕がその場に立ち会えたなら、写真を撮ることになる。

 

 だから、物に意味を求めてはいないのである。  

 

 

 

 

 この世界が在る限り、そしてそれを見る自分がいる限り、写真にはキリがないのである。

 

 まず、気持ちと手段が先。 

生まれ持った「何か」が自分の中から消えない限り、僕にとっての写真を終わらせることはできないらしい。 でもこの先、年老いて歩けなくなれば、絵を描いたり、言葉にしたりすることにもなるかもしれない。 欲求だけは、たぶん消えない。

 

 

 今朝は4時に起床。 今日は撮影して新たな何かを自分に取り込むよりは、言葉を吐き出し、写真を整理し、まとめることを選ぶ。 早い話が、展覧会の準備をするのである。 見せるための作業をする時間を作らないといけない。

 お昼には、散歩がてらの撮影に出るつもりだけど。 

 

 東京での『大竹伸朗展』が終わって、僕は結局、展覧会を見に行くことはなかった。 

 この後、富山と愛媛に巡回するらしいが、見に行くのかどうかはわからない。 

 ただ、BSの番組は見たし、各サイトのインタビュー対談YouTubeで細野晴臣のラジオ番組のゲスト出演、そして何よりも、トークイベントの映像は繰り返し見て、その言葉を聞いている。 とくにファイナルの回は良い。

 

 注意しないといけないのは、大竹伸朗の作品を楽しむことは僕にはできないということ。 それで自分を満たすのは、僕にとっては違うことになる。 

 

 ただ思うのは、この方の存在は写真やアートの世界において今一番全うに感じられることであり、それは僕の中で、アール・ブリュット  の延長線上に存在するもので、「アートという業界」が先になっていないことに、限りない救いを得られることなのである。 

 

 それは、これまでとこれからの戦いそのものを表している。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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