日な日な余波ははなやか歩く

週1~2回くらいのペースで、ここで写真展をやってます。「繰り返し」と「凡庸」は写真と人生の本質です。

下品な行動。







用水路。

その向こう岸には、不法投棄のゴミが散乱している。
こちら側は、そんなもの見当たらない。

向こう岸は住宅街の側で、こちらは田畑。
人間とは勝手なものだと思う。そして気楽なものだとも思う。

テレビや布団、洋式便器などが見える。
遠くて小さくても、便器なら判別できるかと、黒々とした林を背景に撮ってみる。
それで十分。
もうゴミを撮るのは気が進まない。あざとさが先立ち、嫌になる。

ここまで、たくさん歩いた。
歩いたわりには、成果はない。迷いだけがある。

この1年、京都での日常生活の中で自分の撮りたい写真を撮るには、どこに足を運ぶべきかと考えて、手がかりに「大きな河」というものを選んだ。なぜならば、大きな河の両岸には森があり、その隣りには畑があり、その畑には人の痕跡がある。

町に暮らす人の畑と言うのは、憩いの場のような雰囲気が漂う。
ベンチやイス、納屋の中を覗くとソファーが並んでるという風景もあった。

故郷に帰った際の山中で撮っている時の緊張と興奮にくらべれば、町の自然には、本来の自然のピリピリ感がなくて呑気な空気が漂っている。とりあえずは、その人間臭さが良いとも思ったので、それを中心に撮ってきた。
でも、それも飽きたのかもしれない。

そろそろ、場所を変えなければと思い始める。

そして、それ以前に持つ疑問、「自分はいったい何をしてるのだろう?」。
当人にすら判らない行動を続ける自分。
奇行と言えば、それまでだが、言葉で言い表すことのできない行動に対する自らの疑問。
それが消えることはない。
消えないと同時に、すでにこの先のことも期待している自分がいるのだから、どうしようもない。
理屈抜き、生理としての行動であってほしい。