イタリアの写真ぽく写っていないというのは、そういうわかりやすい風景が写っていないということ。
写真集『in Vento 1984-87』では巻末に簡素な地図でも示されているように、地名は重要な意味を持っているだろうし、そうすると社会的な時間の流れによる風景の変化などが写真の価値を作っていることになる。やっぱり、ロバート・アダムス的な見方が正しいのだろうか。
この写真集には雑然とした「日常」がグイド・グイディの手触りで写っている。お世辞にもきれいとは言えない街並みと、少し天空きの構図、殺風景な色あい。僕がこの本を買った理由はそこにある。学術的な意味は置いといて、だ。
僕は京都市に住んでいるが、京都らしい風景を撮りたいと思ったことはない。ほとんどが、地名も省いた「どこでもない」写真。
客観的に普遍的に見ることで、写る事実。それこそが写真の特性で、それを積み重ねることに、意味を感じる。その上で、写真としてかっこいいがどうか。それが重要。
リチャード・ミズラックみたいに整いすぎた風景も悪くはないが、少し抜けてるくらいの方が自分の趣味には合う。
で、グイド・グイディ。
ちょうどいい、と言ったら失礼かもしれないが、この写真集のちょっとした散漫さは、心地いい。やはり、写真集において目の心地よさは重要な気がする。
インテリじゃない僕には、これからもそれが写真集を買う基準になると思う。