日な日な余波ははなやか歩く

週1~2回くらいのペースで、ここで写真展をやってます。「繰り返し」と「凡庸」は写真と人生の本質です。

弱い立場。

 

 

 今朝は北に向かって歩く。 北山通りをさらに上がって、気がつくと上賀茂まで来ていた。

 

 歩いているうちに、若い頃、たぶんこの辺りで、モノクロのトライ-X400というフィルムをカメラにつめて、仕方なく撮っていたことを思い出した。 何かを探して、だけど撮りたいものも見つからないままに、むなしくシャッターボタンを押してた。 

 今も、撮る対象というのは、あの時とほとんど変わらない。 だけど、あの時とはやっぱり何かが違う。 同じ出来事を文章に書いても捉え方が変わるように、写真も繰り返しが単なる繰り返しにはならない。 それは時間の不思議。 

 

 

 さっき、若松孝二の映画『エンドレス・ワルツ』(1985) を見終わった。 見るのは2回目。 思えばこの映画も、最初に見たのはあの頃だった。 阿部薫役の町田町蔵が小説家「町田康」になる直前くらいの頃。 パンクの町田町蔵はどうやって暮らしているんだろう?・・・・ああ、こうやって暮らしているのか、みたいな印象だった。 そして小説家デビュー。 違和感はなかったけど、明るい場所にたどり着いた感じが、何だか、うらやましかった。 ひとまず、いや、やっぱり町田町蔵はかっこいいなと、今回見ても思った。 映画は青い画面の場面も多くて、それも自分の好みだった。 共演の古尾谷雅人にも、グッとくる。

 

 

 

 

 阿部薫のように屈折している自分をも押し出して、表現をする自分に徹する、それは大変な生き方だ。 強気でいても、自分をさらけ出すというのは、ある意味、弱い立場とも言える。 強みと同時に弱みを見せて、つっこまれる対象になるのだから。 それは単に強気な正論を吐くだけの人とは訳が違う。 さらけ出しているのだから。 自分に徹して、ひとりぼっちを生きるのは、やっぱり孤独なものなのだ。 時には黙り込んだり、時には子供みたいに真に受けたりして。  

 だからそういうことを、「共有する」なんて、初めから無理なんですよ。