日な日な余波ははなやか歩く

週1~2回くらいのペースで、ここで写真展をやってます。「繰り返し」と「凡庸」は写真と人生の本質です。

判らないが、気持ちいい。

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 京都で撮る「いつも」のことが桁違いな、東京の景色。 撮らせれてる感は強いが、それでも撮らざるを得ないのが、自分の性。 立ち位置はいつもと変わらないのに、目の前の世界が変わったことで、京都でやっていたことの面白さが何だったのか、よくわからなくなる。 迷いの気持ちが発生。 警戒警報。 ちょっとヤバめ。

 

 でも、ま、いいさ、という気分もある。 目の前のことを撮っていれば、そのうちまた、次に撮る写真が面白くなる。 訳がわからなくなりましたくらいが、ちょうどいいのだ。 そんな気がする。

 

 YouTube で、『立花隆対論1994・谷川俊太郎』を見ていたら、谷川俊太郎が読みたくなった。 活字に飢える。 

 先の対論にも取り上げられている詩集『世間知ラズ』を本棚から取り出して、晩ご飯前にいくつか読んでみる。 

 この世に未だに名付けられていない「何か」を現す言葉を読むのは、不思議にすっきりする。 人間の人生において、けして気持ちの良い出来事をモチーフにしている詩ばかりではないのに。 反対に、美辞麗句な言葉ならべが、気色悪く感じるのはなぜだろう。 

 

 詩でも、アートでも、写真でも、この世の「判らない」に気づく瞬間というのは、なんだか気持ちが良い。