日な日な余波ははなやか歩く

週1~2回くらいのペースで、ここで写真展をやってます。「繰り返し」と「凡庸」は写真と人生の本質です。

表現の自由。

 

 

 

 

 

 

 

 

 今朝は夜明け前に、撮影に出かけた。 ちょっとだけ、久しぶりである。 

 

 5月の展示の準備を進めている中ででも、並行して常に何か撮ってなければ、自分の中に何かをため込んでしまうことになる。 それは気持ち悪いので、身体感覚を忘れないよう、とりあえず撮影はやめないようにしている。 ただし撮影しながら、未だ同じことを繰り返しているなあという、往生際の悪さの自覚もある。 

 いったい、今朝撮ったのはどうするんだろ? フィルムで撮っていた時と今のデジタルでは、その扱いも少し変わってきている。 無駄にとっても、デジタルの方が金銭的ダメージはないし、管理もしやすい。

 その瞬間にウソがなければ、まあ、いいか。

 

 

 

 

 

 

 

 夜明けの光が生みだす風景の色は、僕にはすんなりと受け入れることができるし、撮る手応えもある。 とくに、今朝のような青空が生みだす色彩の時間の中にいることは、本当に心地が良い。 もし時間が止まるならば、いくらでも撮っていられるだろうと思う。 

 

 無論、一瞬でも時間が留まることはないが故に、夜明けの景色の色があっという間に変化する刹那が、僕の写真を撮る欲求につながっていることは忘れてはいけないのだが。 

 

 

 

 

 

 

 

 僕は僕が思う「本当」を目指している。 それは、カメラの技術や、写真以前の話である。 

 

 案外僕は、写真をやっているという意識がいつも希薄で、絵を描いているのと同じくらいに写真を、単なる「表現」と捉えているところがある。 

 自分の内面にレンズを向けているわけではないが、逆に外の世界を見ることで、結局、自分を発見することを繰り返している。 いや、本当は自分など意識する必要もないとすら思う。

 

 これは僕に限ったことではないはずだ。 もっともっと自由になれればと思う。

 

 

 

 

 

 

 そんな中でも KYOTOGRAPHIE という催しの中に自分も半身、身を投じるという感覚は、幾らかでもざわつく心地を感じさせられる。 

 自分の写真が今どういう場所にいるのか? どんな人がどんな意識で見てくれるのか? 

 何の意味も価値もなく、このまま時のしじまに消えていくのだろうか? そんなことも考えてしまう。 考える必要はないのだけど。 

 

 その日その日の自由を追求したところに、いったい何が見えるのか、まあ、そこら辺のことでもボンヤリ考えながら、死ぬ時間まで、それなりに生きていられればいいやと思うしか、今は手は無いのである。

 

 

 

 

 幹は切られても、根は残る。 なんだか判らないが、今朝撮った上の写真を見て、そんな言葉を思いついた。