日な日な余波ははなやか歩く

週1~2回くらいのペースで、ここで写真展をやってます。「繰り返し」と「凡庸」は写真と人生の本質です。

たしか「仕事」は「私事」と、アラーキーは言っていた。

 

 

 何から考えれば良いのか、判らない。 混乱している。 しかし、そんな時でもプリンターから出てくる僕の写真は、とても良い。 

 5月3日からの写真展の作品のプリント。 数が多いものだから、今度の展示の一部はインクジェットでプリントし、展示する。 お買い上げの際には、ちゃんとラムダプリントにします。

 

 

 

 

 データではなく、「物」になる良さ、というのがある。 それが量となって積み重なるのは、見ていて自分なりの達成感を感じることができる。 

 僕の写真には、ドキュメンタリー的な要素が全くない。 写真を見せることで何かを説明したり、理解を深めてもらおうという気持ちを僕は持っていない。 それが自分の写真を撮る意欲とはつながらないのだ。 なんでこんなものを撮るの?という疑問も、実際、その写真が存在することで納得してもらう。 結果オーライなら、それでいいのだ。

 

 

 

 

 写真のことは、それでいいんだ。 今の自分の問題は、別のところにある。

 

 考えたことが一瞬として留まらず、次から次へと流れ去っていってしまうから、近頃は忘れないように、思ったことはクロッキー帳に鉛筆で書き出すようにしている。 

 

 気持ちはコロコロ変わって、不安になったすぐ後に、前向きになったり、反対に一転して落ち込んだり。  

 毎日を乗り切るのが大変で、気持ちが二転三転する。 気持ちが先走り、いざその時になってやる気が失せることも多々あるから嫌になる。 よくこんなので、写真を続けられたと思う。 

 

 

 

 

 

 近頃、仕事という言葉の意味を考える。 TV や YouTube で転職の CM を見せられると、ホトホトうんざりする。 働くことは尊いと思うが、世間で言う仕事の意味なんて、それほど大したことではないだろうと僕は思っている。

 仕事=誰かのお役に立てることだとしても、結局自分もお金を稼いでいる訳だから、完全な奉仕ではないし、お金を貰わなければ誰がやるか、てなもんである。  

 

 都市部でいう仕事だけが働くことではない。 雪国では、除雪することだって十分に働くことである。 まったくお金にならなくても、生きるための仕事に変わりはない。 

 そして、好きなことに徹して続けること、それも十分に仕事だと思いたい。 workという意味での。 好きから始まらなければ、何をやっているのか全然判らない。 

 あと、仕事ということを理由に、高圧的な態度をとったり、頭ごなしの常識を振りかざすことも、したくない。 自分たちの住む世の中が、ホントにつまらなくなる。