日な日な余波ははなやか歩く

週1~2回くらいのペースで、ここで写真展をやってます。「繰り返し」と「凡庸」は写真と人生の本質です。

輪の中には、混ざらない。


 今日は休日。 自由の身。 今朝も同じく、京阪の始発電車に乗って、大阪行き。 「京橋」駅で下車。 そこからJR環状線に沿って、時計回りの方向に、「天王寺」駅に向かって歩きながら撮影する。

 

 

 

 

 で、さっそく見つけた下の『女の子』の落書き。 今朝は、2カ所で発見。 

 

 

 

 とくに先の絵は、ガラス貼りのビルで反射した光が塀を照らし、この絵だけをを浮き上がらせていた。 次の高架下の絵も、影の中にかかわらず、白い線が浮き上がって見える。 それなりの心得のある人間の行動だと思う。

 僕はそれを絶好の光のタイミングで、写真を撮っているのかもしれない。 作者本人に感謝してもらってもいいくらいだ。 誰かは知らねども。

 

 まあ、あくまでそれは余談であって、僕の目的は、それではないということを強調しておく。

 

 

 

 

 

 

 

 今朝の撮影の主な対象となる街は、たぶん「鶴橋」だと思ってはいた。

 本当に適当に歩きながらも、すんなりとたどり着いたが、早朝の鶴橋では、ほとんどの店はシャッターが下りている。 それはもちろんわかっていたが、それでもわずかながら、販売店などは営業している。 ともあれ、駅舎と街の交わり方が、良い。 暗いが、ほとんど殺伐とした感がないのが良い。

 

 

 

 例の如く、事前に何の意図も持たずに、撮影した。

 

 鶴橋の様な市場や商店街を撮る時、世間的には、人々の活気を撮るというのが一般的なのだろうが、そんなのは自分には無理である。 輪に入ることができない。 だから、はじめから人間ドキュメンタリーにはソッポを向き、街を風景としてしか見ないのである。 

 

 ここらで、いい加減、人間は自分たち人間を冷めて眺めないと、ダメになる気がしている。 そういうこと、たぶん、分かる人には分かると思う。

 いつだったか、アウトドアの番組の予告でタレントのヒロミが世間の人は「食い過ぎ」と言っているのをたまたま見たのだけど、それには共感した。

 

 写真の役目のひとつは、静寂な客観から生まれる冷静・・・そういうところにもある気がする。

 

 

 

 

 あ、「女の子」の絵、もう1枚、撮っていた。 今朝は全部で3カ所。 この人、相当、頑張っている。

 

 自分が今日歩いた歩数は、25,220歩。 いやー、午前中にもかかわらず、ホント暑かった。 自分へのご褒美に、京都に帰ってから、ヒレ80gのトンカツと生ビールをいただきました。 キャベツ目当ての、肉、控えめです。 でも久しぶりお店で食べたら、美味しかった。