日な日な余波ははなやか歩く

週1~2回くらいのペースで、ここで写真展をやってます。「繰り返し」と「凡庸」は写真と人生の本質です。

ETV特集の「消滅集落の家族」を見る。

 

 

 

 

 

 録画してた ETV特集『消滅集落の家族』を、さっき見終わった。 

 

 

 どんな人が、どうやって、暮らしているのか。 どんな人ならば、それは可能なのか、僕の関心はまず、そこにあった。 

 

 でも、本当にそれは可能なのか? という疑問は、実際のところ、よくわからない。 どの家族でとってもこの先の未来というのは、子供の「成長」であるし、大人の「老い」なものだから、時代の流れ・・・とくに今の時代は、単なる時間の経過だけとは言い切れない分、本当に厄介で、誰にとっても「この先」がわからない。 それは、番組の中の家族も例外ではなかった。 

 

 田植えや稲刈りの風景、雪遊びや、山、田舎の学校など、限界集落という言葉はまだなかったものの、僕の幼年の時と重なる風景はそれなりにあって、自分の人生の中に一瞬でも、ああいった記憶があるのは良かったと思える。 でも、それも、冷静になれば、時間を等分に割ったうちの一つでしかないし、今現在も、それを全うできているわけでもないので、綺麗な思い出だけで済ませないところがあって、複雑の気持ちにはなる。 

 

 それも含めての共感できたドキュメンタリーだったけど、単に作品として「良かった」で終わるわけにもいかない。 自分にとっても断ち切ることのできない課題ではある。 とりあえず、半永久保存、決定で。 

 あと、ついでに・・・。 

 この家族の「お母さん」であり「奥さん」が、とても自然な可愛らしい人で、それが番組中、とても微笑ましく見えた。 もちろん奥さんに限らずで、このドキュメンタリーの家族は全く嫌味なく自然な人たちだったことは大きい。 「そういう趣味の人」って感じでは片付けられない、飾らない自然さが、とても特別な感じに、僕の目には映った。

 

 

 ETV特集は、「自然と人間の関わり」みたいな田舎のドキュメンタリーを、ちょくちょくやってくれるけど、僕は好んで見てます。 見逃したくないほどに。 

 1時間の枠っていうのは、相当、苦渋の編集なんだろうなあ、と思うけど、まあ、どこのドキュメンタリーの現場も同じなんだろうな、とも思う。

 

 たぶん今回のも再放送があると思うので、見れる人は見てほしいっす。

 

 

 

 

 

今日の写真は、昨日upした残りものです。 本文とは関係ありません。 スミマセン。 

 

 

 

 

生きるのは、不安定。

 

 昨日、4回目めのワクチン接種。 だから今も身体のあちこちが痛い。 けど、発熱はなし。 今朝は4時過ぎに家を出て、久しぶりに京阪電車出町柳から5時ちょうどの始発に乗る。 七条駅を過ぎて電車が地上に出ると、すでに空が明るい。 少し慌てる。

 

 

 

 

 

 

 

 「東福寺」駅を出て南に曲がり、踏切を渡って西に進む。 そして目に入ってくる風景を考える事もなく撮り始めるが、今朝は最後まで街と自分が噛み合わず、手応えもないまま、何をやっているのか自分でもよくわからない状態が続く。 あれ、僕は写真の何に魅かれてたんだっけ? そんな気分。 

 

 やっぱり夜明け前の暗いうちから撮り始めないと、やりにくいのは確か。 順を追って対象に引き込まれていかないと、自分の中にグルーブ感が生まれない。 とは言え、篠山紀信『オレレ オララ』みたいのなら心身の状態は写真に影響もするだろうけど、夜も覚めやらぬ朝の風景を前にグルーブ感も何もあったものではないか、という感じもずる。

 

 状態のいい時は、次から次へと写すべき対象が目に入ってくる。 今日はそれがない。 下手すれば同じことの繰り返し感が先に立って、何にも写せなくなりそう。 ヤバめだわ。 明日からの1週間が乗り切れない。 そんな感じになってくる。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 家に帰って撮ったものを確認してみたら、まあ悪くはない・・・・ていうか、いつもと変わらない。 多少の自信はあるしね。

 



 この1週間は心が不安定で、気力が弱ると八方ふさがりの状態に陥りそうになる。 前に進む具体的な方法を見失いそう。 それと自分が低血糖であることにも自覚した。 

 低血糖の時はとてつもない空腹を感じ、声を発するのもしんどくなる。 何をするにも散漫になって、意識が閉じてしまう。 そういうのもあるんだなということを自覚する。 

 

 

 自分が過度に敏感になって、鬱の状態に陥らないためには、適度に心の中に持っているものを外に出さなければいけないと思っている。 自分の場合、今は写真を通じてしかそれを表現する術が見当たらない。 

 世間の人を見てても、働いて、適度に遊んで、楽しい気分を共有したりして・・・なんだろうね。 自分の中にある欲求は忘れ去る事もできず、そして誰にも預けることができないから、僕はそれを常にいじくってないと耐えられない。 それは案外、趣味の領域に収まることではなくて、なおかつ、絵ばかり描いてた幼少の頃から始まっているのだから、根は深いのである。

 

 

 


私の写真集は、shop または ホホホ座浄土寺店 にて発売中です。

 


 

 

  

 

 

  

 

 

今日も人生最後の日。

写真集は shop または、ホホホ座浄土寺店店頭にて、発売中です。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 起床は、午前4時29分。 寝坊。 歯を磨いて着替えて外に出ると、空が少し明るい。 急ぐつもりはもうなかったけど、撮影を近場で済ましとくのも嫌だったので、普通に南に向かって歩いた。 ゴールは岡崎、平安神宮の鳥居を見上げる停留所から、バスに乗って帰宅する。 7,793歩を歩いて、121カットを撮る。

 

 岡崎の喫茶店には、ジョンとヨーコが来店。 自分も御登りさんの如く、写真を撮っとく。 しかし、ウソのような佇まいの2人、この写真のせいだろうか、リアリティがない。 これは既製の写真で、ここで撮った写真じゃないのだろう。 この年代だったら普通カラーで撮るだろうし。 いや、でも本当のとこはわからないわ。 1979年だと、撃たれる1年前。 ふたりが来店の時、僕は9歳。 自己と照らし合わしとく。 

 

 これを書く前、先に録画してた『ジョン・レノン 最後の週末』を半分ぐらい見た。 

 

 見始めてまず、自分自身が銃で撃たれる、その瞬間というのは、どんな感じなんだろう? というのを想像した。 で、「ヨーコ」はその時どうしてたのだろう? ということも初めて考えた。 場所がダコタアパート。 映画『ローズマリーの赤ちゃん』の舞台になったのが、1968年。 そうか、映画の方がずいぶん前なのか、不気味な映画だったなあ。 でもポランスキーはいいよねえ(今も現役にはびっくりする)。 あと、カサヴェテスが旦那役だったよなあ・・・などと、止めどもないことを考える。

 

 

 

 

 こういうドキュメンタリー映画ってまず、周囲の人々の言葉が騒がしく乱立していながら、本人の心は藪の中にあって、結局事実はあっても、真実などというものにブチ当たることはないと僕は思っている。 いや、真実なんて、無い。 「自分」という人間を観察しても、そう思う。 

 写真は真実を写すなどと信じている人はいるのだろうか。 記録、記憶、思い出。 そして、その時の自分が「見えた」と感じる何か、 まあ、いろいろあるよねえ。 知らんけど。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

良いタイトルが思いつかない。

 

 

 

 

 休日の度に撮っている、ここでupしたり、しなかったりの写真の中から、一掴みの写真を選んでシリーズの構成をする、というのが僕の作業の大筋になる。 

 

 そんなものを撮ってどうなる? などと後のことは考えずに、その瞬間の視覚的興味に引っかかったものをどう撮れば自分の思考に合った写真になるのか・・・構図の配分と画面の濃度をどうするか・・・それだけを考える。 それだけでどうにかしたいと望む。 

 労力を惜しまないということだけで、やっていることはめちゃくちゃ単純。 今時、こんなやり方で伝わる作品になるのか? 疑問はある。

 かと言って、やり方は変えることもできない。 人間そんな簡単には変われない。

 

 

 

 

 変われない、理由はある。 

 

 カメラと写真の関係は、紙と鉛筆の関係に同じ。 1本の鉛筆で綴られた言葉、1本の鉛筆で描かれた絵画。 そこに何かが生まれれば、それはまぎれもない創作だ。 写真を撮ることに限らず、あらゆる創作の基本はそうあるべきだと思う・・・ということ。

 

 ただ、単純に言葉で表すことができる理由があるからそうなってしまったのかというと、それだけでもないとも思う。 生理、体質、性格・・・不精。 これらは簡単にどうこうできるものではない。

 

 あと、このシリーズに付けたい良い言葉・タイトルが見つからない。 これまでにいろいろ考えたことがこじれてしまって、自分の中で満足のハードルが上がってしまった。 後になればなるほど、むづかしくなってしまう。 

 

 

 

 

 

 休日の今朝は、やる気が少しある。 頭にパッと目的地が浮かんだ。 

 結果、13,703歩を歩いて、346カットの写真を撮る。 主に河原町通りを下がって行ったのだけど、通りを挟んで西側は歩いてないところも結構あって、新たな眺めも見つけられて新鮮な気持ちになれた。

 

 やはり、自分が撮っている対象はそこに在る「物」ではなくて、その時の「状態」であるように思う。 生きている限り自分自身に同じ状態はない。 だから、いくらだって撮り飽きることはないのである。 でも案外、写真をそういうものと捉えている人は少ないのかもしれない。 技術の競い合いだけで済むなら、写真はきっと・・・・面白くないだろうなあ。

 

  

 

 

 

 

 

 

 

 ブライアン・イーノのインスタレーションも終わったみたいだし・・・と思ったら、9月3日まで延長したみたい。 僕は観に行きましたけど。 きっと良い思い出になって、この先も記憶に残ることでしょう。

 

 

 


 

 

 

   

 

 

どこに行くのも面倒くさい。

午後。

カラス。 逃げないカラス。 

最近、撮ってて、猫も逃げない。 

「にゃんだ、写真かあ」って、もう一回、寝たりする。

 

 

 


 「天一」でラーメンと餃子。 その後、雨ふり。 けっこう強めで、足がズブズブ。 すかさずカメラを取り出す。 どうしたら雨が雨らしく写るのか。 雨はつかみどころがない。 せめて背景が良い時じゃないと思うが、それは運しだい。 

 

 

 

 

 

 

 



 家に帰ってから、もう一度『最後の講義 俳優 柄本明』を見て、録画の立川談志のドキュメント相米慎二『台風クラブ』を、ちょっとづつ見る。 『最後の講義』の後だと後の二つも、いつもよりビリビリくる。 でも眠い。  

 

 

 

 

考える、の繰り返し。

 

 

 

 

 

 

 

 

 BSで、『最後の講義』の柄本明編。 

 

 この人が話す演技のことは、田舎に暮らす人にも理解できる。 都会に住む「その筋の人」にだけ通じない話とは違う。 だから役者ではない人が見ても面白い。 むしろ根本的なことだと思う。 

 講義の中で出てくる掘り投げて床にバタンと落ちた「段ボール箱はいい役者、人間は駄目だねえ」なんて、まさに『既にそこにあるもの』だ。

 

 大竹伸朗柄本明。 二人の存在は同一線上にある。 僕にとってはね。 

 

 今朝も写真を撮りながら、カメラで拾う「もの」や「こと」について、考える。 いや、正しくは写真になった時の「もの」や「こと」について考える、である。 理屈は当てにせず、当てずっぽもダメ。 

 いつもそうだけど、マンネリを避けるには、結局、よく見て、考えて、するしかない。 何でも撮っときゃいいんだ、では何も掴めない。 今の「その時」をちゃんと見るしかない。 ただ、繰り返しだけのようで、その時間の真摯な「何か」が写った時が、自分には「つまらなくない」ということになるのである。

 働く行為には、必ず惰性が伴う。 しゃーない、が日常だ。 写真をビジネスにしないのは、撮る瞬間にそういうことを無視できないから、なのかも知れない。

 

 田舎に生まれてよかったと、今僕はそう思ってます。

 

 





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自由にやって好し。

 

 夜中0時ごろに目が覚めて、そこからほとんど眠れずだったけど、体の調子は悪くない。めまいもナシ。 

 

 『霜降り明星のオールナイトニッポン』をぼんやり聞いて、ついで『三四郎のオールナイトニッポン』の冒頭を聞いたところで家を出る。 

 家を出てしばらくしてから、行先を決めてないことに気がつく。 足の向くままに、出町柳から枡形商店街を抜け、北西方向に撮影することにした。 

 

 

 美術家・大竹伸朗氏の自然で自由な考え方・態度に共感しているこの頃。 起こるべくして自分の中で起こった変化だと思える。 

 

 根っからのカメラオタクでもばければ、写真家体質でもない自分。 創作行為には自由を望んできた。 その上で染まった写真表現の世界。 僕はたぶん写真に傾倒する多くの人たちとは違う感情を持ってきた気がする。 

 一般的にテーマやメッセージを掲げるドキュメンタリー写真を作ることには、絶対に無理があったし、仕事として写真を選ぶこともなかった。 

 

 

 

 

 大竹伸朗氏の『既にそこにあるもの』という言葉からもうかがい知れるように、既製のものに感情を揺さぶられ、言葉で言い表すことのできない創作の欲求を、圧倒的量の作品数で体現する姿勢には、余計なことを考える必要はないと安心させてくれる何かがある。 

 

 写真家・森山大道氏も、写真は量を撮らなければいけないという言葉は聞いてきたけど、自分の中では理屈的としてしか受け取れなかった。 もちろん、同意・実践はしているのだけど。 たぶん自分の中のタイミングもあったと思う。

 

 

 

 

 上の2枚は、赤信号と青信号の光が看板か何かに写っているのを撮った写真。 文学的に写真を捉えてしまうと、こういうのはまず、除外されることになるだろう。 だけど、自分はそうじゃないんだもの。 

 

 ヴォルフガング・ティルマンスが出てきた時なんか、そういう印象を持っていた。 それまでの写真の考え方では、あのインスタレーションは生まれなかったはずだ。

 

 この先は、他人の考えや既製の写真の枠に縛られずに、自由に写真を撮っていこうと思っている。 何度も言うけど、それが自分にとっての「創作」なのである。 

 

 

 

今朝は歩数の記録は残らず、撮った数は151カットで、少なめ。

 



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