日な日な余波ははなやか歩く

週1~2回くらいのペースで、ここで写真展をやってます。「繰り返し」と「凡庸」は写真と人生の本質です。

浄瑠璃寺へ。









昨年、父が死んでから一人田舎で暮らしている母を、京都へ遊びに来るように誘った。
どこか行きたいところはないかと聞くと、
浄瑠璃寺」という言葉が出る。

調べてみると、母だけではなく自分も行きたいと思い、
市内からは少し遠くはあるが、思い切って出かけることにした。

京都とは言えども、ほとんど奈良。
実際、奈良駅から、高速バスに乗る。その方が早くてお得らしい。

裏手をまわって、本堂の引き戸を開けて、入る、と。

薄暗い中に、横一列に九体の阿弥陀像。
ほぼ自然光だけだったと思う。
しばらくして、だんだん眼が慣れてくる。

その九体の一人ずつを、正面から見ていくと、
それぞれにそれぞれの表情と体つきがあることが分かる。
そこには、圧倒的な何かが在る。
文化とは、こういうものか。はあー、すごいものだ。
わざわざ来てよかったと思った。
本当に。

しかし写真は撮れない。禁止だから。別段、撮る気もない。
こんな存在の強い被写体を撮っても、自分の写真にならない。

庭を歩く。
池をぐるっと回り、対岸の土手の裏で三脚を立て、マミヤRZを乗せる。

野放しの森と違って、手入れした庭園の裏側のその場所で、
わずかなその庭園のその一角の人工的差異が写るのだろうか?
そんなことを思いながら、シャッターを切った。
少し動いて、樹々の裏に見える三重塔に向っても撮ってみる。

歴史が刻印された場所の、その隙間みたいなとことを探して撮る。
歴史には正面から向かえない逃げ腰ぎみの自分を、少なからず感じる。

でも歴史なんて求めても仕方がない。
自分がやることではない、人に任しとけばいい。それが好きな人に。

じゃあ、自分が撮ったのは何なのか?
何を撮ったのか?ではなく、写真を撮ったのだ、と思う。
大げさなことではない。
等価に、黙々と、やってるだけなのだ。