日な日な余波ははなやか歩く

週1~2回くらいのペースで、ここで写真展をやってます。「繰り返し」と「凡庸」は写真と人生の本質です。

森と骨




森。
樹々の切れ目に道らしきものがある。

山の中。と、いっても風通しの良い淡い光のさす森。
別荘地とうのもうなずける。

その道らしき方向に入り込んでいくと、左手の茂みの中に土地を購入された人の名前が書かれた看板がある。

その横・・・・骨が見える。あばら骨。
鹿か?。
その場で三脚を立て、絞り込んで、シャッターを切る。

後ろめたさにすみませんとつぶやき、我にかえって自分の足もと見ると、そこに横たわるもう一頭の骨。うわあ、思わず、逃げた。

丸ごとの鹿の骨。
こちらに頭を向けて、横たわっている。
冬の間にこの場所に息絶えて、骨になったのだろう。
青い空の下、午前7時の陽のあたる森の中で、そこに横たわる1頭の骨は、とてもリアルな自然だった。

逃げたその間合いのまま三脚を立てて、ファインダーを覗くと、雪解けの水にぬれた地面の奥にその骨がある構図。
あれこれ考えることなく、ピントを合わせ、シャッターを切る。
そこでホルダーのカウンターが「10」を過ぎ、フィルム1本が終わった。

その場を立ち去り、しばらく違う場所で撮ってはいたが、どこか心残りがある。
もう一度「その」森に踏み入り、その骨を違う距離と構図で撮ってみることにした。

犬も歩けば棒にあたった状態だったのかもしれない。
だからといって無節操に乱暴に、その「骨」だけを撮ればいいという気にはなれない。
その状況を自然な風景として撮るのが、適当なことに思えた。

あの骨は、今もあの場所にあるのだろう。
季節も天候も様々に移り変わっていく中、ただあの場所にその骨が在る、そのことは「ちっぽけ」なことでもありながら、とても「崇高」なことでもある気がする。

とは言え、そんなことを表現するために写真を撮っているわけではない。
見たままのことが写っただけのこと。まだ現像してはいないので、ちゃんと写ってるのかどうかさえもわからない。

思い上がりも甚だしい写真は、使い物にはならないのが常である。
その写真をちゃんと手にするまでは、何をどう考えようとも全く意味のないこと。