日な日な余波ははなやか歩く

週1~2回くらいのペースで、ここで写真展をやってます。「繰り返し」と「凡庸」は写真と人生の本質です。

「トポグラフィクス」と、私。その2。

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人間中心に世界を見ない、という視点。

それは写真の問題以前の話で、今現在、人は自分たち人類をどう見ているのか、そして自然界から見た人類の存在とは、どんなものなのか? という疑問の上に成り立つ。

 

 宇宙と、そして自然の循環の中で人は「不自然」な動物として生まれ死ぬのだから、冷静に考えれば、人間は自然の一部にしか過ぎない。だけど何故だかそれを忘れてしまうような目の前の日常と人生が続いてしまう。

 その原因の一つが「お金」という存在。「お金」を発明したのと同時に、人は大きな不幸を背負うことになってしまった。世界各地のの紛争が起こる原因の一つは「貧困」だという。お金という共通価値が生まれた後では、取り返しがつかないほど、人は自然から孤立してしまったのかもしれない。だったらなおさら、仲良くしなきゃあね、と思うよ、プーチン。個人の欲望を満たして今さら何の得があるのか? その虚しさが現実として人々の目に写る今、これを最後に人の日常が希望に転じてくれたなら、と願いたい。

 

 

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 本当は僕がこんな文章を書くこともおこがましいと思うのだけど、当然これはいろんな人の考えを聞いた上での流れで、トポグラフィクスと自分との関わりを考えた時に、今の自分の考えを正直に現した結果の話である。

 そして自らの中にある「自然」を完全に忘れられてしまった人というのは、実際少ないとも思える。生きるための日常が忙し過ぎて、人の考えは本末転倒を起こしているだけなのさ、きっと。

 

 

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 僕は昭和45年生まれの山の中の小さな村で圧倒的な自然の風景を眺め育った人間だから、街の風景が「装飾」をなされる以前のその昔はどんなものだったのか、ボンヤリ想像したりする。道路がアスファルトを敷きつめる以前のガタゴト道だった風景などを想う。陽が当たらずその下にひっそりとある土。それがあたり一面だと、水面から顔を出せない人のように、ずっと息もできない、そんな苦しい気分になる。

 自分は街という風景に対して完全な信頼ではなくいくらかの疑いを持っているし、土に対する後ろめたさみたいなものは確実に脳裏のどこかにある。人からそんな仕打ちをされても、自然は即座に何も言ってくれない。感情じゃないものね、自然は。

 

 人の存在を客観するということは、今一度後ろに下がって、その周りの世界をも眺める必要がある。

 まず始めに、なぜもう一度「人」という存在を眺め直さなければならないのか? そして、その疑問が果たして自らに在るのか? 無いのか? を問いただす。

 写真を撮る際のとっかかりとして、自分の場合そういうところから端を発するということになってしまう。 つまりこれは、僕が抱えている性なのだ。

 

 

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