日な日な余波ははなやか歩く

週1~2回くらいのペースで、ここで写真展をやってます。「繰り返し」と「凡庸」は写真と人生の本質です。

バランスをとることの難しさ。

 

 

 

 

 

 今朝も先週と同じく、撮影が終わりに差し掛かる頃に合わせて、九条大石橋の小さなパン屋さんペルメルに立ち寄り、パンを買った。 

 

 昨年にお店を見つけて、そして先週末に初めてパンを食べて、結果、僕はこのお店もパンも一変に好きになってしまった(これまでお店の前を通るのが早朝だったからお店はまだ開いてなかった)。 

 

 昭和のかわいいパン屋さん。 若い人が作る店と違って気取らない感じが「昭和の田舎」生まれの僕にはちょうど良い。 何よりも価格が安いし、一個が適量な大きさで、定番のパンがきちんと作られていることに安心する。 コーヒーを買って京都駅の線路側の広場のベンチに座り、電車のホームのアナウンスなどを聞きながら食べる朝食は、とても気分が良い。 

 それに加えて、家から遠く離れたパン屋さんの開店直後の焼き立てのパンを日常的に続けて食べることは、ちょっと不思議な感覚があって面白い。 あくまで撮影のついでに立ち寄っているから、わざわざ買いに来ました感もないのが嬉しいのだ。  

 

 

 

 

 

 時代が経過しても、街の小さなパン屋さんは経営が続いているけど、街の小さな本屋さんは、うちの近所からもほとんど無くなってしまった。 あるのは大きな本屋さんか、経営者の趣味が反映したセレクトショップ的なお店。 

 

 大きな本屋さんは、品揃えが良さそうに見えるけど、案外そうでもない。 

 昨日、あるお店に美術書を探しに立ち寄ってみたのだけど、書棚に並ぶのは売れ筋作家の作品集か、古典的な作家の当たり障りのない単調な美術書ばかり。 「経済の一環としてのアート」的な捉え方の変化もあって、「それ」以上に買い手が刺激が得られそうな書籍はわずかしか置いてないし、その平板な雰囲気は書棚の前に立つ以前から想像がついてしまう。 

 何なんだろう? あれって。 適度に売れ筋の商品から在庫してスペースを埋め、売りたい本を選ぶ個性も理解も反映されてない感じ。 もう少し、やる気を見せてくれ、ていう印象。

 

 逆に、経営者の趣味が反映された本屋さんは、最初は雰囲気があって刺激的に感じれられても、だんだん雰囲気に酔ってばかりもいられなくなって、冷静にならざるをえない。 

 自分に当てはめて考えると、本は出会いだから、タイミングによっては今は何にも欲しくないという知的欲求の飽和状態があって、そういう時は何を買っても余計でしかなく、無理に買っても、結局読まずに売ることになる。 そんなのはもう辞め。 買ったからには一生手放さない。 今はそう思って本を選んでいる。 そんなわけで、そのお店に立ち寄る頻度も減らしている。

  

 

 

 

 

 はっきりと名前を挙げてしまうと、僕は「丸善」が好きである。 

本屋さんの理想は「図書館」だと僕は思っている。 丸善は有名で大きなお店だけど、内容があって、押し付けがましさもないところが良い。 やっぱり歴史が物を言うのだろうか。 品揃えにバランスがとれている。 店内で検索して在庫がなければ、「まあ、仕方がないか」と諦められる。 

 そりゃあ、ネット通販にはかなわないのは当然だけど、フラッとお店に立ち寄り、予想外の書籍に出会えるのは楽しいものだ。 

 パン屋さんにしろ本屋さにしろ、そういうお店(場所)はずっと消えないでほしいと、僕は心から願っているのです。