日な日な余波ははなやか歩く

週1~2回くらいのペースで、ここで写真展をやってます。「繰り返し」と「凡庸」は写真と人生の本質です。

その場の「空気」の圧迫。

 

 


 

 祝日の休日。 自由の身。 午前4時少し前に家を出る。 今日は電車には乗らず、南に向かって歩く。 「夜の街」を撮ることにする。 久しぶり刺激が欲しくなった。 

 

 撮りながら祇園に到着。 路地をウロウロしてると午前5時を過ぎてもあちこちからカラオケの音。 屋外では歌い声だけが響いてくる。 どの人の声も似て聞こえる。 

 進んでいく先の方から酔って調子に乗った大声が聞こえてくる。 そんなゾクゾク感の中で撮影する。 だけど、写真的な刺激はそれほど無くなってきている。 回数を重ね、祇園の景色に飽きても仕方がないか。

 

 

 

 

 

 

 

 四条大橋を渡って木屋町に入る。 祇園とは毛色の違う人たち。 故意には人にレンズを向けずに、でも画角に入ってくる人影も拒まないで、写真を撮る。 

 シャッタースピードはゆっくりだから三脚を立てているが、まわりから人目も気にならないし、相手もそれほど気にしてない様子。 目下の敵は自意識。

 

 他人様の歩行の邪魔さえしなければ、逆に三脚を使う方が「そういう目的の人なんだな」で済むみたい。 こっちも夢中になっているし、放っとかれてるだけという見方も含めて、悪い人ではない的な安心感が現れているのなら問題はない。 

 とにかく、やりやすくなっている。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 日々の悩み。

 独りの「自分」がやれることなど、はじめから限られている。 計算で何とかできるほど、創作行為というのは融通がきくものではないし、できたとしてもスケベ根性には自覚がついてまわらなければ、それは自分を蝕む毒になると思う。 

 

 自分の創作行為の営業マンには僕はなれないし、なるつもりもないような人間だから、人との関係の上であんまり言わない方が良いことを考えだすと、上手くものを言う術がいつまでたっても身につかない。 瞬時の反応の中に、ネジが1本はずれてたりするから、それが嫌悪感を生む。 自分と相手との間に妙な空気が流れる。 

 

 

 昨日夜だったか、録画してたETV特集『芥川賞を読む”正しさの時代”の向こうへ』を見ようとしたのだけど、しんどくなったので、すぐに辞めて番組も削除した。 

 小説の中の一文を紹介されているのを聞いていると、物語が主人公の会社での仕事の事情や軋轢を小説の中のモチーフとして書かれているみたいで、それが僕にはしんどくて堪らなくなった。 小説の物語の中での現実的ないざこざは、今はできれば読みたくない。 

 

 そういうところが原因だろう。 僕は世間話ができない。 目先にある現実的話題を考えて、どう答えたらいいのか、それがわからないのだ。 

 当事者ならまだしも、一般的な大人事情というものには自分の考えがないままで、通り一遍の返答をしても、相手も半信半疑になるだけで会話も続かず。 そりゃ僕が悪いみたいな気分。 けど、無い答えは揺さぶっても何も出てこない。 場違い的なしんどさ。 

 

 その根本的な原因は、「お金」だ。 稼がなければ、家族も自分も食っていけない。 それが自分の中に歪みを生む。 

 だから今の時代、今の社会にぴったり合っている人は羨ましいと思う・・・・・・か?  ホントにそう思っているのか、自分?

 

 んなこたあない。 むしろ歪みがなければ、今の自分は無いんだよ!  

創作行為の自由も味合わずに、祇園でお酒飲んでカラオケを歌っている自分はホントに楽しいと思う?  仮に祇園で遊べるくらい稼げたらの話だけど。 

 

 そんなの自分が一番知っているじゃん。 だったら、苦しめ、苦しめ。 このまま、独りで歩いてけ。 



 

 

 

 

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