日な日な余波ははなやか歩く

週1~2回くらいのペースで、ここで写真展をやってます。「繰り返し」と「凡庸」は写真と人生の本質です。

わかってほしい。

 

 

 昨日の午後、吉増剛造×空間現代『背』インスタレーションを見る。 

 

 通りかかりに「吉増剛造」の名前が目に入ったので、ふらりとそのライブハウス『外』に足を踏み入れることにした。 以前から僕はこの場所のことを建築事務所か何かだと思って見てたくらい、何の予備知識もなしで、「空間現代」とはバンドの名前であり、そこがバンドの合同会社の場所だったとは、知らなかった。

 

 さて、昨日見たそのインスタレーションのことを僕が言葉に表そうとしても、それは土台無理な話なので、知りたい方は映画の公式サイトにある動画を見てください。 雰囲気は伝わると思います。 

 僕にとっては久しぶりの異空間で、まあ、よくは知らないけど、灰野敬二という名前が何となく思い浮かびました。 現代音楽と言ってしまってもいいのかわからないけど、あくまで個人的な雰囲気だけの話です。 違ったらスンマセン。 

 

 でも、ひとつだけ。 ガラスに写る吉増剛造の姿が生々しくて、ちょっと怖かったです。

 

 

 

 

 明るい昼間に歩きながら写真を撮っていると、すれ違う人は、僕がカメラを向けた方向を見て、何かあるのか確かめたりする。 でもそこにきれいな風景や特別なものなど、何ひとつない。 

 

 こっちはこっちの価値観を抱えた眼で写真を撮っているだけなのだから、もし何か聞かれても「ほっといてくれ」と言うことしかできない。 とりあえずそれが写真にならない限りは、他人に自分の意思を伝えることなど、できるはずはないのである。 

 ある種の写真は、言葉では言い表せない直感的なものである。 直感とは、今一瞬だけの話ではなく、それまでの過程を経て生まれるものであるから、それは独りの中からしか生まれない。 自らの「孤独」に、ものを言わせるのさ。 

 

 ともかく他人の視界には、そこにある「普通」が見えるだけ。 しかし、表向きは僕もその他人と同じ視界を見ているのだけど、ただしその中のどれか・・・それは光と色と形状と表面と刹那的な感情と残像的な印象と・・・などなど、言い出せばキリがない「何か」を写真にしようとしている。 

 

 


 

 まず自分は、常に「自分の写真」を撮るという意思を自分の中に保持し続け、行動し、その繰り返しの中から「意味なき価値」を掘り出そうと、自分という人間の内にある意思に耳を澄まし、身体そのものを眼にして、この不思議な人間社会の姿を写真にしている。

 

 

 ここで、「ゆらゆら帝国」『わかってほしい』の歌詞から。

 

○か×の夢

○か×の今日

○か×の明日

○でも×でもないもの

わかってほしい わかってほしい わかってほしい

 

 すごいね、この表現の方法。 その通り。 

 芸術だ、美術だ、アートだ、などと世間ではすでにわかってしまったようにまかり通っているけれど、これではこの先の未来は無い。 

 人間は生まれながらに不自然に生きてしまっている・・・ってことかしら。 そのくだらない、「どうしようもなさ」をエネルギーに変えずにはいられない人間もいるということ。 それがなければ、救われない。 生きている我々自身が。

 

 誰も何も教えてくれないし、救ってもくれない。 そうはわかっていても、やっぱり救われたいと何処かで望んでいる。 

 少しはマシに生きれないものか。

 

 そんなわけで、とりあえず今朝も写真を撮りに行きました。 

 

 京阪「龍谷深草」から始まり、JR京都駅までの 11,987 歩を歩いて、167 カット。 内容的には悪くはないけど、撮った数が思ったより少なかった。 

 

 



 

 



引き続き、写真集は、shop にて、または以下のところにて、販売中。

 

VOICE GALLERY

修美社

ホホホ座・浄土寺店、店頭にて。

 

よろしくお願い申し上げます。