日な日な余波ははなやか歩く

週1~2回くらいのペースで、ここで写真展をやってます。「繰り返し」と「凡庸」は写真と人生の本質です。

眼には見えない価値を探している。



 

 休日。 晴れて自由の身。

 

 今週の後半から、腰の辺りから左足の関節にかけて痛みだし、労働の時間中もかばいながら歩いているうちに右足も痛みだす。  そんなわけで今朝の「歩く」は控えめにして、ふだん撮影の終点にすることが多いJR京都駅周辺を今日は出発点に、夜が明ける前から撮影して回ることにする。 

 

 駅にたどり着くと、駅ビルは午前7時を過ぎないと3Fから上には上がれない。 かろうじて従業員が出入りする階段のところのみ上がることはできたので、そこからガラス越しに電車の線路が並ぶ様子を見下ろすことはできた。 

 

 しかし、いざ目的地には来たものの自らのボンヤリした写真の欲望をどう満たすのか、具体的に何をどう撮ればそれを満足させられるのか、撮ってみるはいいが実際のとこ何が写っているのか(写った物自体はわかるが)、その作業の意味は自分でもまったくわからない。

 

 固定されたイメージで写真を限定させない。 必要なのは、直感のみ。 そうは思うが、始めたからにはこの時間を無駄にしたくはない。 いやいや、そうじゃない。 ダメならそれも仕方がないという覚悟。 基本に戻れ、考えるな 感じろ。

 

 "Don't think.  Feel"  ブルース・リーの教え。 いや、ホントにそう思う。 

 

  

 

 


 訳もわからず、274カットを撮影。 思ったより多い。 内容はこれから時間をかけて、眺めることにする。  それはいつもと同じ。

 

 

 これまで今回のシリーズ『Somewhere not here / kyoto fragments』(仮)を撮り重ねてきて、写真のベクトルは、円の中心に向かい始めている。 

 これは自分の思考や言葉で実現するものではなく、習慣化された撮影の積み重ねによってのみ実現される。 そしてまたその結果や結論も、一口に言語化できるものではない。 それを簡単に表せられたなら、その作品はそれでおしまい。 

 

 目には見えない価値を導き出すっていうのが、本当は一番むづかしいのさ。

 

 他人のじゃなく、自分の中からしか導き出せない「不可解な野生」みたいなものを形にする。 それこそが、創作することの本当の価値なのさ。 それが成し遂げられたならば、その創作物は終わらないのだ。 

 

 

 

 




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