昨夜、お酒を飲んだ後、久しぶり夜中の街を歩いた。
傘をさして、小雨の中を歩く。 カメラは持ってない。 ただ歩くだけの時間。 『必殺仕事人』の中村主水(藤田まこと)が番傘をさして歩く場面のような光と影の中に溶け込んで、うっすらコートが濡れるくらいの霧雨だから、歩くのも苦ではなかった。
これまでに写真を撮った場所を巡ったり、以前住んでいた家や神社、商店街を覗いたりしながら、お酒を飲んだ後の興奮した気分を冷ます。 ちょうど良かった。 Just Fit 。
タクシーに乗ればそれで済むじゃん、という考え方もあるだろうが、そんな感じで時間を普通に消化していては、結局この時間の自分自身も無駄になってしまう気がする。 やっぱり「楽しいかった」という単純な気分だけじゃ済まされないんだよね。 10,275歩という時間の中身は色濃かった。
で、思ったんだけど
写真を撮ろうとすること(どんな分野でも言えることだけど)は、私の写真を撮るという時間を必要するということ。
考えてみれば、当たり前のことだった。 世間の常識を後ろ盾に、保証された価値を受け取ってそつのない時間を過ごしているだけでは、「私の時間」は生まれるはずがない。 「私の時間」とは、私というやり方を形に現すための時間。 「何らかの形に現さざるを得ない私」という時間。 それは上手な私の技術を見てください、というのとは異なる。 まず、私の時間 =人生なのである。
用意された、そこにあるジャンルを疑いもせず、そのジャンルの常識に乗っかって「これが私の表現です」という事態は、足元にある一番大事な部分が抜けている。 アール・ブリュットの作家や作品には、そのことに微塵の曇りもない。 本来あるべき姿だと思う。
私は、私の時間を生きているか、本来それが、その作り手の才能の所在を表す基準になると思う。
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昨夜は、というか今朝は帰宅時間が遅かったので寝坊して、それでも午前8時には目が覚めたのだけど(年寄りは嫌でも目が覚めてしまう)、外はちょうど雨のままだったので、撮影はしてません。 今日の写真は、1月8日に撮ったのの残りです。